邪教の謂れはその業にあり
岳伯都が連れてこられたのは衡山の山腹だった。しかしそこは正規の山道ではなく、目の前にはどう見ても舗装されていない獣道が伸びるのみだ。韓凌白は岳伯都の背中から呪符を剥がし、自分のものと一緒に燃やして捨てると山道を下り始めた。
「僕たち、どこに向かってるんですか?」
彼を追いかけながら岳伯都が尋ねると、韓凌白は振り返りもせずに
「山を下りて皆と合流する」
と答える。
「先のことが気になっているだろうが、生憎今は説明している暇がない。詳しい話も皆で集まってからだ。とにかく今はあの場から遠ざかることだけを考えろ」
岳伯都は喉元まで出かかっていた質問をぐっと飲みこんだ。
韓凌白は先の術でけっこうな距離を移動したらしく、黙々と下山すること半刻で二人は山のふもとに着いた。韓凌白が声をかけると、何仁力と胡廉、久しぶりの再会となる藍蝶蝶が揃って二人の方を見、安堵の表情を浮かべた。
「虎ちゃん! 元気してたかい?」
真っ先に飛びついてきたのは藍蝶蝶だった。しかし、再会に顔をほころばせたのも束の間、彼女は急に真顔になって岳伯都の手首を取って脈を診はじめた。
「具合は悪くないだろうね? 腹が痛くて耐えられないとか腹下しで今すぐ漏らしそうとか、そういうのはないかい?」
「……ええと、ないですけど」
岳伯都は訝しみながら答えたが、藍蝶蝶はそれを聞いているのかいないのか、脈を診ただけで「大丈夫そうだね」と言って岳伯都を解放した。
「韓凌白に渡しといた薬が万が一にも効いてなかったら今頃あんたまで倒れてるところだからね。何もないなら一安心だよ」
「一体どういうことですか? みんな突然倒れちゃったし、それに凌白さんが蠱毒って言ってたのは」
岳伯都が尋ねると、藍蝶蝶が平然と答えた。
「そうだよ。あたしたち四人で蠱毒を大量にぶちまけてやったのさ。それもこの
「蠱毒は虫や小動物由来の猛毒を用いた呪術です。蝶姐は誰よりもこの術に長けているんですよ」
胡廉が横から補足する。岳伯都はそれを聞いて目をぎょっと見開いた。
「そんな⁉ あの人たちは……」
「遅かれ早かれ死ぬだろうね。解毒薬を作れるのもあたしだけだし」
藍蝶蝶はあっけらかんと言い放つ。岳伯都は愕然として言葉を失った――たった一人の人間が作った毒であれほどの群衆が苦しみ、死んでいくのかと思うと恐ろしくてたまらない。その首謀者が目の前にいる仲間だというのも信じがたいことこの上なく、しかも当人たちには罪悪感の欠片すら見受けられないのだ。
「でも……でも、あの人たちは誰も何もしていないのに」
どうにか口をこじ開けて反論した岳伯都だったが、何仁力によってあっさり否定されてしまった。
「もとより我ら天曜日月教と中原正道は相容れぬ存在。奴らが我が教と教主に抗う限り、攻撃の対象から外れることはない」
「そんな……そんなやり方って、」
「岳伯都」
言いつのる岳伯都を韓凌白が冷ややかに遮る。
「我らが巷では何と呼ばれているか、お前も散々聞いただろう。我ら天曜日月教は正道の連中にとっては不俱戴天の仇、そして正道の連中は敵対関係にある者を邪道だ魔物だと言って憚らない。我らと行動を共にするならばこの程度のことは慣れておかなければ、お前一人が取り残されて辛い目を見るぞ」
韓凌白はそう言うと、藍蝶蝶を振り返って一言尋ねた。
「敖教主は今どちらにおられる?」
「もうちょっと行ったところの廃屋に
藍蝶蝶についていくと、たしかに衡山のふもとからほど近い場所に廃屋がぽつんと立っていた。五人が柵の中に足を踏み入れると、中から笠を被った小柄な娘が現れて
「天曜日月」
と言う。
「昼に夜に天下を照らす」
岳伯都以外の四人はよどみなくそれに応えた。娘は笠を少し持ち上げると、
「父上が中でお待ちよ」
と告げた。
その顔が見えた途端、岳伯都はあっと声を上げた。娘はいつだったか、岳伯都の修行の進展を見に来た敖東海という名の人物だったのだ。
「ご無沙汰しております、教主」
慌てて頭を下げた岳伯都だったが、娘は怪訝そうに首をかしげるばかりだ。韓凌白たちを盗み見ても揃って呆れ顔を見合わせている。
「あの、敖東海教主ですよね……?」
おそるおそる尋ねた岳伯都を尻目に、娘は何かを思い出したようにぽんと手を叩いた。
「ああ、あのときのこと。本当は私は教主じゃないのよ」
「えっ?」
思わず聞き返した岳伯都に、娘はあっけらかんと答える。
「父上があなたの修行の進展を見てこいって私にお命じになったから、ちょっとからかってみようかと思って。私は
敖小鯉はそう言ってくるりと踵を返すと、中について入るよう岳伯都を手招きした。
中で一行を待ち構えていたのは灰色のひげと髪を持つ強面の中年の男だった――彼こそが
「なおれ」
敖東海の声は決して騒々しくはなかったが、静かなだけにかえって威圧感がにじみ出ている。
「韓凌白、藍蝶蝶。此度の働きは見事であった。何仁力と胡廉もよく支えてくれた」
四人は口々に礼を述べ、頭を深々と下げる。敖東海は最後に岳伯都を見据えると、感慨深げに笑みを浮かべて言った。
「岳伯都よ。私は十年前、其方を利用して英雄気取りの正道の連中を一網打尽にしようとした。あのときは計画は頓挫したが……今日、奴らはとくと学んだことであろう。天曜日月教の真価と恐ろしさを! この計画が成功にこぎ着けたのはひとえに其方の力添えがあってのこと。この敖東海、感謝してもしきれぬほどだ」
岳伯都は消え入りそうな声で礼を言い、頭を下げた。心臓が煩すぎるほどに鳴り響いている。韓凌白たちと同じように振る舞っていれば問題ないと思い、それに従いつつも、頭の片隅ではこんな恐ろしい男にどうして頭を下げているのかと思わずにはいられない。何故天曜日月教があれほど憎まれているのか、岳伯都はようやく思い知った。大勢を殺すために江湖や武林の利害とは切り離された大会や、あまつさえ死人まで利用してしまうのが彼らのやり方なのだ。
「敖教主」
ふと韓凌白が進み出て、ひざまずいて頭を垂れた。敖東海が話すよう促すと、韓凌白は立ち上がって岳伯都をまっすぐ見据える。
「此度の件で、岳英雄には少なからぬ疑念を抱かせてしまったものと見受けられます。災厄の芽は今のうちに摘み取っておくのが最善かと」
岳伯都はぎょっとして後ずさった。一方の敖東海は興味深そうに頷いている。
「岳伯都よ」
敖東海に声をかけられ、岳伯都はびくりと肩を震わせた。
「龍虎比武杯に出たことで、其方を迎えようという声が正道の内に起こっていると藍蝶蝶からは聞いている。正直なところ、我が教で其方が果たすべき役目は終わったと言って過言ではないのだが……虎王拳の二つ名に免じて特別に選ばせてやろう。正道の側について我らと敵対するか、このまま我らと共に江湖の統一に乗り出すか、どうしたい」
岳伯都はおろおろと韓凌白たちを見た。しかし彼らはいつになく冷ややかに岳伯都を見ているだけで、助けてくれそうな気配は全く見られない。
「どうする、岳伯都」
敖東海が回答を迫る。岳伯都は「ええと……」と口ごもりながら慌てて思考をめぐらせた。
正直なところ、彼らと共に悪事を重ねるのは全くもって気が乗らない。しかしここまで支えてくれた韓凌白たちを敵に回すのも気が乗らないし、何より今正道の側に回ったところで何になると言うのだろう? あれだけ面と向かって罵られ、なじられ、天曜日月教の一員と見なされているというのに、今更彼らに頭を下げて受け入れてもらえるのだろうか。それに、もしここで正道の側につくことを宣言したら、災厄の芽として摘み取られてしまうのではないか。
選べる道はひとつしかないと、岳伯都は結論を出した。気は進まないが、こうする以外に安心できる選択肢がないのだ。
「……教主と、韓兄たちについていきます」
岳伯都は答え、おずおずとその場にひざまずいた。
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