そして日月はまた輝く

 翌日。いよいよ頂点をかけて戦う二人が決まるという日の朝、岳伯都は韓凌白に一粒の丹薬を渡された。

「何ですか、これ?」

 小さくて黒っぽい色の球を手のひらで転がしながら岳伯都は尋ねた。韓凌白は「特別なものではない」と答えると、それを飲んで内功を巡らせるよう岳伯都に言った。

「……それと、今日の試合は我らは見ることができない」

 一息ついてから韓凌白が告げると、岳伯都は驚きで丹薬にむせてしまった。

「そんなあ!」

「案ずるな。後で必ず迎えに行く」

 韓凌白はそう言うと、岳伯都の背中に手のひらを押し当ててぐっと力を込めた。彼の手を通して内功が注ぎ込まれ、温かな力の流れが全身を巡っていく。

「お前は自分のすべきことに集中しろ。大丈夫だ」

 韓凌白は岳伯都の背中から手を離すと、その肩をぽんと叩いて送り出した。



 勝ち残った四人のうち、最初に戦うのは岳伯都と南宮赫だ。前回の龍虎比武杯で決勝を争った二人の対決が再び見れるとあって、あたりには異様な興奮と熱気が漂っている。期待に満ちたざわめきから時折飛び出すのは令狐珊の声援だ――それに「黙れ小娘!」と怒鳴り返す南宮赫を見ながら、岳伯都はこの群衆の中に韓凌白たちがいてくれたらどれだけ心強かったかと思わずにはいられなかった。衡山に来たばかりの頃に比べればだいぶ味方も増えたとはいえ、仲間と呼べるのはあの四人をおいて他にいないのだ。

 岳伯都は深呼吸をして、「自分のすべきことに集中しろ」と言った韓凌白を思い浮かべた。この龍虎比武杯で少しでも良い結果を残すことが彼のすべきことなのは言わずもがな、ましてや相手は何としても彼を倒そうと息巻いている。南宮赫は首と肩を鳴らして腰を落とすと、あの誰よりも威勢の良い語気で「岳伯都!」と呼ばわった。

「今度こそお前を倒して俺様が天下一になる。覚悟しておけ!」

 岳伯都は返答に迷ったのちに、結局黙ったまま自らも腰を落として両手を構えた。こういう時に脅し文句のひとつぐらいは言えないとなあ、と頭の隅で考えつつも、神経をじっと集中させて南宮赫の出方を見極める。二人の間に流れる緊張を見て取ったのか、群衆のざわめきもいつしかさざ波のように退いていった。


 互いの呼吸、風の音、自らの鼓動だけが聞こえる中、岳伯都の足元で踏まれた砂が軽く音を立てる。それを合図に南宮赫が雄叫びを上げ、岳伯都めがけて飛びかかってきた。岳伯都もままよとばかりに声を上げ、自ら距離を詰めて南宮赫を迎え撃つ。南宮赫の功夫は今まで対戦した他の誰よりも力強く、一手一手に込められた内功も桁違いに強力だ。たしかにこれに善戦できる相手は限られてくると岳伯都は思った。南宮赫と同程度の功力がないと、一手受けるだけで簡単に弾き飛ばされてしまう。


 張正鵠と林信君は他の弟子たちと並んで試合の成り行きを注視していた。特に年若い弟子ほど達人同士の一歩も譲らぬ打ち合いにぽかんと口を開けて見入っていたが、二人にとっても岳伯都と南宮赫の一戦を見る機会は人生の中で二度とないものだ。今回の主催が衡山派の番で良かったと林信君が噛みしめていると、ふと左の腕に温かいものが寄りかかってきた。

「紫雲?」

 振り返ると、妻の段紫雲が彼にもたれかかっている。段紫雲は名を呼ばれてちらりと夫の顔を見上げたが、その色の悪さに林信君は血相を変えた。

「紫雲、どうした! 大丈夫か?」

 林信君はたまらず大声を上げた。その間にも段紫雲は林信君に寄りかかったまま倒れてしまう。林信君の声に張正鵠らが振り返り、幾人かの弟子が駆け寄ろうとしたところで、今度は彼らの中から困惑の声が上がった。続いて観衆の一画からも試合とは関係のない驚きの声が聞こえ、次いで別の一画から悲鳴が上がり、混乱がそこここに広がっていく。


 その影響は岳伯都と南宮赫にも表れた――数十手を交わし、大技も二招ほど放ったところでふいに南宮赫が動きを止めたのだ。見ると南宮赫の額にはいつの間にか脂汗が大量に浮いている。岳伯都も動きを止め、何事かと首をかしげると、南宮赫は苦しげに食いしばった歯の間から低い声で唸った。

「貴様、俺様に何をした」

「何もしてません」

 岳伯都は首をかしげたまま答える。すると南宮赫が

「嘘を吐くな!」

 と吼え、急に岳伯都に殴りかかってきた。

「本当に何もしてませんって!」

「この期に及んで言い逃れとは良い度胸だな、岳伯都! やはり邪教徒どもが裏から手を回しているのだろう! 言え! 俺様に何をした!」

 もはや型も技も関係なく、南宮赫は怒りに任せて拳を振り回していた。岳伯都はそれを避けながらふと周囲を見回して、愕然と目を見開いた。

 観覧席でも衡山派の面々が控える席でも、あちこちで人が倒れている。それを取り囲む者と医者を探す者、張正鵠らの元に行こうとしている者とで誰もが混乱に陥っていた。そうするうちにもまた人が倒れ、新たに驚きの声が上がる。思わず立ちすくんだ岳伯都の頬に南宮赫が放った拳がまともに当たり、岳伯都は強烈な痛みとともに試合の現実に引き戻された――その一撃にも先ほどまでの覇気と力強さはなく、南宮赫もまた呻き声とともに腹を抱えてうずくまってしまう。

「南宮赫!」

 その様子を見たのだろう、令狐珊と欧陽丙が区切りの縄を越えて競技場の中に入ってきた。しかしそれすらも誰も注目していないような状態で、二人を止める者はどこにもいない。欧陽丙はまっすぐに南宮赫に駆け寄ったが、令狐珊は呆然としている岳伯都を認めるなり鞘から長剣を抜き放ち、「この卑怯者!」と叫びながら飛びかかってきた。

「待って! 僕も何が起きてるのか分からないんです!」

「嘘を吐いて誤魔化そうっていうの? この偽英雄!」

 令狐珊の剣筋は鋭く迅速で、空を切り裂いてあちこちから飛んでくる。もとより混乱している岳伯都は反応するのに精一杯で、あっという間に追い詰められてしまった。

「覚悟なさい!」

 令狐珊が一声叫び、剣を構えて岳伯都に飛びかかる。もうだめだ、岳伯都が叫びながら目を閉じて顔をかばった刹那、ガンと固い音がして前方に人の気配が現れた。

 岳伯都はおそるおそる目を開けた――霹靂鞭を持った韓凌白が岳伯都の前に立ち、令狐珊の剣を受けているではないか!

「凌白さん!」

 岳伯都は安堵の声を上げた。一方の令狐珊は怒りに戦慄き、気合いとともに韓凌白に斬りかかる。

「無駄な抵抗はやめろ」

 韓凌白はいとも簡単に令狐珊を打ち返すと、空いた手に印を結んで令狐珊の足元に雷を落とした。

「お前たちは蠱毒に冒されている。動けば動くほど毒の巡りが早くなって死が近付くぞ」

 韓凌白は冷ややかに告げると、岳伯都の背中に呪符を一枚貼りつけた。

「逃げようたって無駄よ! 待ちなさい!」

 令狐珊が叫びながら剣を構えるのと韓凌白が二本の指で呪符を挟み持ったのが同時だった。

 韓凌白が岳伯都の襟首を持って呪文を唱え、時を同じくして令狐珊が二人に斬りかかる――しかし彼女の剣は虚空を捕らえるに終わった。

 岳伯都も韓凌白も忽然と姿を消していたのである。

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