力ある者の哀歌(二)

 常秋水は簫九珠の後を追って足早に歩きだし、彼を呼び止めた。

「何の用だ」

 振り返った簫九珠に常秋水は言う。

律峰戒りつほうかいの話の続きを。今なら誰に聞かれることもなかろう」

 簫九珠はため息をついて視線を落とす――常秋水はここで初めて彼が思いのほか小柄なことに気が付いた。競技場では誰を相手にしても堂々と構えていたためそうは見えなかったのだ。

 簫九珠は顔を上げると、「彼は死んだ」と一言告げた。

「何故」

「私が家を出たから」

「子が親元を離れただけでか」

「違う」

 簫九珠はついに語気を強くした。

「龍虎比武杯で敗れた後、律峰戒は九人の子に全てを押し付けた。だが八人の兄たちは皆失敗した。彼の野望を繕い、大全する最後の手段として彼は末子の九珠を自身の考える最強の剣客に作り上げた……剣と勝利への欲求だけを植え付け、他の全ての存在意義を九珠から奪った。しかし九珠は簫無唱しょうむしょうという隠者に出会い、律家と決別して彼女のもとで剣の道を求めることを決めた。だから律峰戒は死んだ。繕えず、かえってばらばらになった野望とともに彼は自ら滅びを選んだ」

「……簫無唱というのは李玉霞のことだな」

 一息にまくしたてた簫九珠に常秋水は静かに尋ねる。簫九珠は淡々と肯定すると、ちらりと頭を下げてもう一度行こうとした。

「待て」

 常秋水は彼を呼び止めた。訝しげに振り返った簫九珠に常秋水は問うた。

「恨めしくはないのか」

「何がだ」

 唐突な問いに簫九珠は首をかしげる。常秋水は一息入れると、彼を見据えて再度問うた。

「私がだ。律峰戒をそうさせた原因が私にあると言えば、お前は私を恨むか」

 簫九珠はしばらく黙り込んでいたが、やがて首を横に振った。

「私の剣に恨みは不要だ。他に用がないなら失礼する」



***



 勝ち進んだ八人による試合のうち、残るは岳伯都対李宣の一番のみとなった。

 会場が異様な熱気に包まれる中、岳伯都は縄で囲まれた真ん中に李宣と向かい合って立った。世上の何よりも嫌悪していた天曜日月教とともに再び現れた虎王拳と、その虎王拳が唯一認めた知己であり、彼の変化に誰よりも困惑している峨嵋筆――李宣が飛び入り参加を認められてからというもの、常に皆の噂の中心にあった試合がついに現実のものとなったのである。

「……岳大侠、大丈夫でしょうか」

 胡廉は不安げに呟いた。両隣には韓凌白と何仁力が立っており、三人は睨み合ったまままんじりとも動かない岳伯都と李宣を見守っていた。

「実力の上では峨嵋筆は虎王拳に敵わぬ」

 何仁力が相変わらずの仏頂面で言う。

「問題は奴の狙いだ。奴が一人で先走っているだけなら良いが、そうでなければ正道の連中が一枚噛んでいるはず」

 韓凌白が頷くと、胡廉は声をひそめて早口にささやいた。

「素懐忠でしょう。私のところに来ましたよ。あいつ、李玉霞のことやら岳大侠のことやら色々嗅ぎまわっているんです。ここが龍虎比武杯の会場でなかったら懲らしめてやってるところです……」

 しかし、胡廉が言い終わる前にわっと歓声が上がった。韓凌白が「始まった」と呟き、胡廉も身を乗り出して試合に目を向ける。


 岳伯都と李宣は競技場の中央で激しく拳を交えていた。一見すると李宣の猛攻に岳伯都が押されているようだが、李宣の攻撃は全て防がれていて岳伯都には届いていない。先に攻撃を当てたのは岳伯都だった――防御の隙間に繰り出された拳を李宣は避けることができず、肩口を打たれて後方に退いた。李宣は序の口だと言わんばかりに筆を手の中で回して飛びかかり、今度は服を数か所切り裂くことに成功した。それでも岳伯都本人にはかすり傷ひとつつけられず、李宣は今度は腕を掴まれた。それを振りほどくように飛び上がり、胸を蹴り飛ばそうとしても、岳伯都は素早く李宣を放して体を翻す。李宣の足は虚空を蹴り、しかも着地と同時に背後を取られてしまった。李宣は足払いをかけながら振り返ると、下から岳伯都の急所を狙って飛び上がる。岳伯都は足払いを避けるついでにもう一歩下がって李宣を避けると、続く十手ほどを全ていなして再び彼を突き飛ばした。

 李宣は歯ぎしりすると、雄叫びを上げて岳伯都に飛びかかった。岳伯都は目を見開いたが、すぐに腕を回して内功をめぐらせる。この時には岳伯都のみならず、成り行きを見ている観衆全員が気付いていた――李宣がどれだけ猛攻を仕掛けても岳伯都には勝てない。それを分かっていてもなお、李宣は岳伯都に飛びかかっているのである。そもそも李宣が龍虎比武杯に飛び入りで参加したのは突然現れた岳伯都の正体を疑ってのことだ。ひたすら攻撃を仕掛け続けているのも、これで怯むようならばこの岳伯都は偽物だという確証を得たいがためだった。しかし岳伯都は、困惑の色こそ覗かせているが怯む素振りは少しも見せていない。李宣の筆が心窩に迫ったときも、岳伯都はあと一寸というところまでじっと堪えて動かなかった。岳伯都が李宣の腕を掴み、ひねり上げて地面に体ごと叩きつけたところで試合は終わった。

「勝者、岳伯都!」

 分かりきった結果でも、林信君の宣言に観衆は湧き立ち、惜しみない称賛を送る。岳伯都は林信君の言葉が終わる前に李宣から離れ、肘をついて起き上がった李宣に手を伸ばした。

「あの、大丈夫……」

 しかし李宣は岳伯都をキッと睨み、差し出された手を弾くと唸るように言った。

「やっぱりお前はあいつじゃない」

 李宣は砂と血の混じった唾を吐き捨てると、呆然とする岳伯都を置いて行ってしまった。



 かくして、今回の龍虎比武杯で頂点に挑戦する者が出そろった――素文真、南宮赫、岳伯都の拳法・掌法の達人たち、そして唯一の剣客常秋水だ。

 その夜、岳伯都は素文真・素懐忠父子に誘われて宴席に出ることになった。残された韓凌白たち三人は一斉に安堵のため息をつくと、久しぶりに笑い合った。

「やりましたねえ岳大侠! 私たちの苦労もこれで報われますよ!」

 一気に破顔する胡廉に、何仁力も無言で頷く。韓凌白も実に美しい笑顔を見せ、三人はしばし無言で感慨にふけっていた。


 そのとき、窓の外で物音がした。三人は即座に顔色を変え、窓に向かって注意を向ける。簡素ながらも彫り物のされた格子の間に小さな刃が差し込まれ、錠前を断ち切って開け放たれる。

 韓凌白は呪符に功力を集め、胡廉は小刀を握りしめ、何仁力は素手で構えを取った。顔が見えた瞬間に撃退しようと待ち構えていた矢先、姿を現したのは全身黒服に身を包んだ藍蝶蝶だった。

「ご挨拶だねえ、みんな。せっかく明日が勝負時だからそれを教えに来たっていうのに」

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