力ある者の哀歌(一)

 今回の龍虎比武杯を揺るがしているのは南宮赫と言っても過言ではないだろう。無尽蔵の武功が繰り出す技はどれをとっても強烈で、衡山は彼によって物理的に揺るがされていた。そんな彼と対峙することになったのは盲目の刀客雪月影だ——ところが試合が始まる前から、さすがに彼女に勝ち目はないとまことしやかにささやかれていた。研ぎ澄まされた感覚と軽功を用いての素早い攻撃が持ち味の彼女だが、その身軽さ故に南宮赫という嵐を前にしては簡単に吹き飛ばされてしまうだろう。

 しかし、雪月影は南宮赫をある程度には翻弄した。普段は杖の姿をしている仕込み刀を抜き、振りかぶるまでの動作の捕らえ難さときたら、彼女をおいて右に出る者はないだろう。南宮赫も彼女に敗れた男たちと同じように、気付いたときには目の前で白刃が光っているという状況に何度も陥った。しかし南宮赫は雪のように軽く、影ひとつ残さない彼女を捕まえた。投げ飛ばされた雪月影は着地と同時に杖に仕舞った刀を前に突き出したが、そこに突っ込んできた南宮赫の一撃に耐えきれるほどの力は彼女にはなかったのである。

「女!」

 南宮赫は林信君が試合の終わりを告げる前に声高に呼ばわった。

「あと二十年したら俺様と再び戦う許しを出してやる。それまではお前など相手にもならん! 出直してこい!」

 南宮赫の言葉に雪月影はきょとんと首をかしげた。そんな彼女を置いて足音荒く去っていく南宮赫と、衡山派の弟子に手を引かれて歩いていく雪月影を見ながら、令狐珊と欧陽丙は呆れたように言葉を交わした。

「気に入ったのね」

「気に入ったな、あれは」

 何年も付きまとううちに二人が気付いたこと、それは南宮赫は自分が気に入った相手には必ず再戦の約束を(半ば一方的に)取り付けるということだ――それに照らし合わせると、どうやら彼は氷雪飄渺という手合いをそれなりに気に入ったらしい。

「良いわね。私たちは出直してこいなんて言われたことないのに」

「全くだ……だが、これで賭けは完全におじゃんだな」

 令狐珊が欧陽丙の言葉に頷く。せめて岳伯都あたりが当たっていたら二人の完敗では終わらなかったかもしれないが、考えても仕方がない――二人は揃ってため息をつくと、龍虎比武杯が終わってから南宮赫をどう襲うかを各々に思案し始めた。



***



 試合の喧噪と、その膜を突き破ってなお聞こえてくる南宮赫の大声を聞きながら、常秋水は三十六年前の龍虎比武杯のことをじっと考えていた。

 あの頃はまだ今朝の開祖たる洪武帝が即位する前だった。剣術の年と呼ばれ、今なお語り継がれている龍虎比武杯を制した李玉霞と頂点を争ったのが常秋水だったが、彼が李玉霞の前に戦った男もまた、当時の江湖で剣術の天才ともてはやされた男だった。病的なまでの貪欲さで名利を追い求める男だったが、龍虎比武杯という至高の武術が試される場で一敗地に塗れてからは姿を消して久しい。常秋水は彼の剣を思い出し、李玉霞の剣を思い出し、李玉霞の弟子だという簫九珠の剣を思い出していた。事実、自身が試合の場に出るとき以外の全ての時間を費やして、彼は三者の剣について考えていた。ただひたすらに勝ちを見据えた剣。「剣」という武器の髄を凝縮したかのような剣。そしてその両者の性質を併せ持つ、純粋な剣の真髄を目指しつつも勝敗へのこだわりを捨てきれない剣。三十六年前を思い出せと言われたその理由が簫九珠にある、常秋水はそう確信していた。


 青年の剣の由来を知りたい。李玉霞の弟子を名乗り、彼女の剣訣を使うこの青年の正体を知りたい。簫九珠と対峙した常秋水の胸中にあるのはこのふたつの思いのみだった。勝っても負けても、彼と戦うことに意義がある。

 息の詰まるような睨み合いの末、常秋水と簫九珠は同時に剣指をひねった。片や半分に折れた剣、片や完全な剣が双方の鞘から飛び出し、手の中に収まる。まず打って出たのは簫九珠だった。剣戟の音を響かせ、火花を散らして二人は打ち合った。剣の軌道に沿って青い閃光が尾を引いて残り、踏みしめられ、蹴り上げられた風塵が足を踏み変えるたびに巻き上げられる。打ち合い、離れ、牽制し合う中で常秋水はかつて戦った男の面影を感じ取っていた。しかし、剣気を駆使して折れた剣で戦うというのはあの男のやり方ではない。これは李玉霞のやり方だ、そう感じた瞬間に、簫九珠が姿勢をぐっと落として断剣を持った腕を後ろ手に掲げた。

 常秋水は剣身を内功を込めた指でなぞると、大きく振り抜いて剣気を放った。同時に簫九珠が地を蹴って駆け出し、幾筋にも分かれて飛んでくる剣気に何の疑いもなく身を投じる。簫九珠はその全てを打ち返すと、さらに勢いを増して一直線に突っ込んできた。常秋水が剣を掲げて断剣の切断面を受け止めると、互いの剣に残っていた気が四方八方に放たれた。

 剣と剣が触れ合ったまま、簫九珠は空いた手に剣指を作って常秋水の体を狙う。常秋水はその腕を弾くと簫九珠を後方に弾き飛ばし、剣を握り直して自分から打って出た。簫九珠も断剣を逆手に持って再び駆け出し、しかし彼は最後の数歩で足を順番に踏み変えて体をひねった。心窩をまともに貫く位置に出された常秋水の剣は虚空を突き、生じた隙に簫九珠が断剣をひねり込む。常秋水はおもむろに剣を手放すと一瞬のうちに逆手に持ち変えて断剣を弾き、その切っ先を簫九珠の首筋に突き付けた。


 断剣は、完全な刃がついてさえいれば常秋水の心窩を狙えたであろう位置に留まっていた。


 常秋水は剣を簫九珠の首に向けたまま、「教えてくれ」と言った。

「お前に剣を教えたのは誰だ」

「……かつての李玉霞だ」

 簫九珠が抑揚のない声で答える。常秋水は「違う」と言い返し、さらに問うた。

「お前に一番最初に剣を教えたのは誰だ」

 簫九珠は少しの間答えずに、常秋水をじっと睨んでいた。そしてぽつりと一言、

律峰戒りつほうかい

 と答えた。

 多少なりとも予想していたにもかかわらず、常秋水はわずかに目を見開いた――観衆の間には驚きに満ちたささやき声が波のように伝播している。三十六年前の龍虎比武杯にて剣術の頂点を争い、決勝を目前にして常秋水に敗れた男こそが律峰戒だったのだ。

 しかし、龍虎比武杯で敗れてからの彼についてはほとんど噂がなかった。彼の息子を名乗る青年が入れ替わり立ち代わり現れはしたものの、それすらも大した荒波を起こすことなく消えていった。

「律峰戒には息子しかいない。……私はその九番目の子だった」

 簫九珠はそう言うと、自ら剣を下ろして一歩退いた。

「だがそれについて今ここで話す気はない。失礼する」

 簫九珠は拱手して一礼すると、振り返ることなく競技場を後にした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る