幕間:龍虎名冊

公天故事:玉簫無音

 遡ること三十六年前の龍虎比武杯は、若き才能と究極の剣技がしのぎを削った珍しい大会だった。このとき頂点の座を勝ち取ったのは李玉霞りぎょくかという女剣客、彼女は自身で編み出した剣譜「九天剣訣きゅうてんけんけつ」によって江湖の女帝となった伝説の人物である。


 この時彼女に敗れた剣客の中に、公天鏢局こうてんひょうきょくの二爺こと公孫然こうそんぜんという若者がいた。公孫家に代々伝わる剣術を利用して鏢局を始めた公孫逸こうそんいつのすぐ下の弟である――しかし、彼は自分で剣を振るうよりも、他人が振るう剣を見てその良し悪しを評する方に長けていた。帯には剣と共に一本の簫を携えて、興が乗ると決まって一曲奏でる風流好きの文人、それが彼の主な評判だ。事実、彼は龍虎比武杯の序盤にて一招ともたずに李玉霞に敗北したのである。しかし公孫然はそのことを恥じるばかりか、九天剣訣がいかに完成されているか、李玉霞がいかに優れた使い手であるかを論じ続け、いつしか李玉霞その人を語るようになっていた。

 曰く、彼女の剣は鋼のように強く柳のように柔らかい。凛とした空気は竹林を思わせ、男であれば間違いなく当代一の君子であったと公孫然は語った。彼が李玉霞を公天鏢局に招くまで長くはかからず、それも二夫人として一族に迎え入れる覚悟まで決めた。かくして公孫然は李玉霞に、人生を共にしてくれと頼みに行った――


「あとは知ってる! 逸大哥が乗り出すまで、然二哥がコテンパンにやっつけられたんだ!」

 小さな男児がもろ手を挙げて話を遮った。

「『姑娘、龍虎比武杯で勝ったからと言って自惚れていると今に身を滅ぼすぞ。私の手にかかれば、お前なぞ赤子の手を捻るようなものだ!』『随分と自信があるのですね。ではなぜ龍虎比武杯に出場されなかったのですか? 口でなぞいくらでも驕りことはできますわ』『それは出るまでもなく私が天下一の剣客だからだ。疑うならば我が剣を受けてみよ!』『ではご教示願うといたしましょう。条件は?』『私が勝てばお前は二弟に嫁ぐ。これだけだ』」

 男児はたどたどしい口調で厳めしい声音と強気な声音を使い分け、年の離れた兄から聞きかじった当時のやり取りを演じる。公孫然は笑いながら彼の頭を撫でると、卓を挟んだ反対側に座る李玉霞に片目を瞑ってみせた。

「寧小弟、ではなくてですよ。言葉をきちんと覚えなさい」

「良いじゃない、二義姉さん。阿寧はまだ五歳なんですもの」

 そう言ったのは李玉霞の隣に座る少女、兄妹の中では八番目の公孫玲こうそんれいだった。大人びた容貌の中にも少女らしい闊達さを覗かせる彼女はしかし、今日も剣の鍛錬の間に李玉霞に叱られている。公孫家の若い面々や新しい客卿にとって、それまでの誇りや驕りを容赦なくへし折る指導役の李玉霞はともすれば公孫逸より恐ろしい存在だったのだ。

「それより二嫂、二嫂はあんなに強いのに、どうして鏢師の訓練ばかりしているのですか? うちの鏢師を五人集めてようやく二嫂と同じくらいの強さになるのに」

 江湖や武林の英雄譚が好きだった公孫玲は、よく彼女にこんな質問をした。そして李玉霞の答えは決まって同じだった。

「人との約束をたがえず、誓ったことを最後まで貫き通すこと、これが江湖を生きる上で最も重要な心構えだからです。私は負けたら然様に嫁いで公孫の家に入るという約束のもと逸大哥と戦い、敗れて然様の妻となりました。最後までこの家に忠義を尽くさなければ、あの一戦も私たちの約束も、全てが欺瞞となってしまう」

 しかし、そんな彼女も剣が手中になければただの妻、少しきついところのある一人の女性だった。公孫逸たち十二人の兄弟姉妹のうち、夫である次男の公孫然を除けば、彼女に特に懐いていたのは末弟の公孫寧と八妹こと公孫玲だ。鍛錬から夕餉までの空いた時間、四人はよく居間に集って茶と菓子とともに他愛もない話に興じていた。



 月日は移ろい、公孫玲は遊歴に出たきり消息を絶ち、公孫逸は世を去った。主の退場にともなって公天鏢局もまた江湖からその姿を消した――公孫然と李玉霞が跡を継ぐことに反発した者によって鏢局全体を巻きこんだ争いが起こり、全てが灰燼に帰したのだ。

 生き残ったのは李玉霞ただ一人だった。在りし日の快楽や幸福はかえって彼女を傷付け、沈黙と孤独だけが癒しとなった。彼女は尼寺の所有する竹林の中の庵にこもり、李玉霞の名も捨て、新たに簫無唱と名乗るようになった。あの簫も、一生を捧げると誓った夫とともに血と火の海に沈んでしまったからだ。


 かくして李玉霞は過去の人となり、その名が聞こえることは久しくなかった――彼女の弟子を名乗り、九天剣訣と半分に折れた剣を使いこなす青年剣客が現れるまでは。

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