嵐を呼んだ家出少年(三)

 昼過ぎからはいよいよ雨が降り始め、残る試合は雨が上がってからに持ち越しとなった。岳伯都たちは鍛心堂たんしんどうに案内され、副掌門夫人である段紫雲の手料理と茶で昼のひと時を過ごすことになった――のだが。

 どちらかというと無口な者が多い上に令狐珊と飛雕の間にはぎこちない空気が流れ、おまけに韓凌白は他の全員の敵に当たる立場だ。岳伯都は何度目とも知れない微妙な場にまたまた放り込まれ、低い卓に隠れるように肩をすぼめていた。

「いやはや、興味深いことになりましたな」

 そんな中、真っ先に口を開いたのは知廃生だった――この場にいる十二人の中では彼が一番社交的で、なおかつ話好きと言える性分だ。知廃生は如竹から受け取った茶で口を潤すと、

「まさかあの一世笑傲いっせいしょうごうが飛雕殿の御父上だったとは。どおりで弓術に優れているわけだ」

 と言った。

「……何故親父の弓がすごいと思う」

 部屋の隅から飛雕が答える。そういえば、彼は初戦の後でこの鍛心堂に控えていたときも、卓があって皆がいる中央ではなく隅の方にいた。岳伯都はそのことをふと思い出したが、今はとても余計な話ができる空気感ではない。

 知廃生は茶杯を如竹に返し、扇子を取り上げて言った。

「一世笑傲の署名は常にやじりで彫られており、その横に矢が一本刺さっている。剣客であれば剣で、刀客であれば刀で自らの名を残すであろうことを思えば一世笑傲の得物はおそらく弓――実際に弓矢を携えているあたり、弓術の使い手で間違いないだろう。盗みに入った全ての場所に名を残していくということは、それだけ腕に自信があるということではないかね? 少なくとも私ならそう見立てるのだが……君自身はどう思う?」

「あんた、俺を脅してるのか? あとで対決するからって、今のうちに揺さぶりをかけて試合に集中できないようにしてるんじゃないだろうな?」

 飛雕の目が不穏な光を放つ。知廃生は落ち着いた声音で否と答えると、

「こうなっては、御両親との確執を残したままの方が君の実力の妨げになってしまう」

 と言った。

 今や全ての目線が飛雕に注がれている。飛雕は唇を噛んで部屋を見回していたが、やがて諦めたようにため息をついた。

「そうだ。俺は汪頑笑の子で本名は汪鳴鶴おうめいかく、弓は親父から、他の武術は母さんから習った」



 時を同じくして、張正鵠は汪頑笑おうがんしょうその人の口から彼が飛雕こと汪鳴鶴の義理の父であること、連れ合いの女人こそが彼の母親で名を江玲こうれいということを聞かされていた。

「あの子の父親は私と頑笑の手でとうの昔に地獄に送りましたわ。私の貞操は犠牲になりましたが、それまで何人もの婦女を貶めてきたどこの馬の骨とも知れない淫魔を討ち取れたことを思えば何ということはありません」

 江玲は乱暴そうな身なりとは裏腹に、どこか育ちの良さを感じさせる女人だった。見た目にも言動にも緑林の荒くれ者そのものの汪頑笑とは釣り合っていないような印象だ。しかし張正鵠はそのことはおくびにも出さず、飛雕は自身の出自について知っているのかと尋ねた。

「知ってるよ。女を教えてやった次の日にその話をした」

 わずかに目を丸くした張正鵠を尻目に、汪頑笑は酒でもあおるかのように茶を飲み干し、すでに荒れ放題の頭をガシガシと掻いた。

「もっと良い時機に言うべきだったって言いたいなら、そいつは身に染みて分かってるよ。なんせそのあとから、あいつは俺たちの言うことを全然聞かなくなっちまったんだからな……英雄になるだの天下の悪人を全員射殺すだの息巻いて、ついには俺たちはおろか、手下どもにも何も言わずに出ていきやがった」

「では、衡山へはどのような伝手を辿って来られたのですか」

 張正鵠が尋ねると、江玲が街の噂を聞いてきたと答えた。

「衡山で開催されている龍虎比武杯で鳴鶴と同じくらいの年の若者が活躍していると小耳に挟み、事情を探ってみたのです。そうしたらこの若者というのが見た目も武術もあの子そのもので。これは間違いないと思い、二人で乗り込んだ次第でございます。我々の不躾をどうかお許しください、張掌門」



「……だって、龍虎比武杯に出て優勝すれば、あんたや素文真のような天下の英雄豪傑に認めてもらえるじゃないか。俺は影でコソコソやるよりも、皆の見ている前で堂々と正義を貫く人になりたいんだ。だから傲世会の根城を抜け出して衡山に来た。……親父たちには俺が英雄として有名になったときに言おうって思ってた。でもバレて追いかけられてるんじゃ台無しだ」

 飛雕はそう言うと、ため息とともに抱えた膝に頭を落とした。岳伯都たちは揃って顔を見合わせた――初めて参加した龍虎比武杯で決勝争いの十六人に食い込んだ時点で、彼はすでに相当な評判を得たと言える。その上傲世会は、姿こそ見せなくとも「侠」の志を持つ重要な仲間として江湖では考えられていた。そうだと知ってはいても、汪鳴鶴の中で、目立ちたい盛りの若さと憧れが一体化してしまったのだろう。そして偽名を使って龍虎比武杯に参加したということは、それなりに覚悟も決めていたということだ。

「そういえば、其方は今幾つだ」

 韓凌白が思い出したように飛雕に尋ねる。飛雕は途端に顔をしかめて

「誰が教えるか!」

 と声を荒げたが、知廃生に促されて渋々「十七だ」と答えた。

「十七⁉」

 岳伯都は思わず声を上げてしまった――すぐさま隣の韓凌白が彼の腿を叩き、残る全員が怪訝そうな目で彼を見る。目の見えない雪月影だけは正面に向けた顔を動かさなかったが、代わりに雪のように軽く、冴えた声で短く言った。

「岳伯都の名が江湖で最初に聞こえたのは、彼が十六の頃だったと認識しておりましたが」

「……そうなの?」

 岳伯都は声をひそめて韓凌白に尋ねたが、韓凌白はわざとらしく咳払いをして答えなかった。

「十六でも十七でも同じでしょう。今注目すべきは、飛雕小侠が虎王拳と同じ年頃にして一躍名を上げたという点ではないですかな」

 韓凌白はそう言うと、馬鹿な真似をするなとばかりに岳伯都を睨みつけた。

「子を思い通りに動かせると思っている親ほど、一度手元から消え去ると躍起になって探すものです。汪頑笑たちが来たのはそういう理由ではないのでしょうか」

 ふと、簫九珠が口を開いた。彼は何やら思案にふけっているような様子で、手元の茶杯をじっと見つめている。飛雕は「まさか」と言って否定したが、これはこれでどこか歯切れの悪い返答だった。

「……ただ、何年か前から、母さんが俺たちは外に出ちゃいけないって言って、外に出してもらえなくなった。根城の中でも鍛錬はできたけど、実戦の機会は全然なかったんだ」

「それは何年前のことかね?」

 扇子をもてあそぶ手を止めて知廃生が尋ねた。飛雕は少し考えたのちに口を開いたが、彼が言葉を発する前に鍛心堂の入り口が開けられた。


 入ってきたのは林信君だった。林信君は部屋の隅の飛雕を見つけると、彼に向かって真っ直ぐ歩いていった。

「お父君から伝言です」

 飛雕は弾かれたように立ち上がり、「何ですか」と聞く。林信君は知廃生の方をちらりと見ると、あえて全員に聞こえるよう声を張って答えた。

「一世笑傲と掌門が話し合った結果、飛雕殿と知廃生殿の試合を明日の朝一番にずらすことになりました。全力で戦い、飛雕殿が勝てば傲世会から離れることを認めるそうです」

「……もし、負ければ?」

 飛雕がおそるおそる尋ねる。林信君は一言、

「傲世会に連れて帰る、と」

 と答えた。

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