全てが順調、計画通り

 夕暮れ時、泊まっている小屋に戻ってきた岳伯都、韓凌白、何仁力の三人が見たのは藍蝶蝶が自分の荷物をまとめているところだった。

「どうしたんですか、蝶蝶さん?」

 岳伯都は驚いて尋ねてから、何仁力と韓凌白が気まずそうに彼女の荷物から目線を逸らしていることに気が付いた。

 藍蝶蝶は食卓の上に布を広げ、その上に着替えを適当に積み上げていた――とはいっても、色とりどりの刺繡が目を引く黒の長袍以外には白地の衣服が何着かあるだけだ。岳伯都が首をかしげていると、藍蝶蝶がその上に靴下を一揃え積んでニタリと笑みを浮かべた。

「なんだい。下着のひとつやふたつ、珍しくもないだろう? それとも、修行者のお二人さんには刺激が強かったかい?」

「しっ……⁉︎」

 思わず息を詰まらせた岳伯都に、藍蝶蝶はケタケタ笑ってすり寄った。そのままがっしり肩を組まれ、岳伯都は困惑で顔を赤くする。

「藍蝶蝶。何故ここで荷造りをしている」

 韓凌白が固い声で聞いた。藍蝶蝶は岳伯都から離れてひらりと手を振ると、

「何故って、帰らなきゃいけないから」

 と答えた。

「帰るって、どこへ?」

岳伯都が尋ねると、藍蝶蝶は「辰煌台しんこうだいだよ」とだけ答えて卓の布の端を結び、ぎゅっと引き絞る。

「ああ、岳大侠、凌白兄、仁力兄。お戻りですか」

 折よく胡廉が別の部屋から現れた。解いたたすきをまとめながらお疲れ様ですと声をかける胡廉に、ふと藍蝶蝶が尋ねた。

「胡廉、あんた湯浴みの用意してたんだっけ?」

 藍蝶蝶の問いに、胡廉は「ええ」と頷く。彼女が目をぐるりと回すのを見て、胡廉は何やら思いついたように「そうですね!」と声を上げた。

「先に岳大侠に使ってもらいましょう! お疲れでしょうしゆっくり休んでください、ね?」

 胡廉は言い終わらないうちから岳伯都の背中をぐいぐい押し始めた。何が何やら分からないまま姿を消す岳伯都を見送ると、三人は無言で顔を見合わせた。

「……仕方ないよ。虎ちゃんには聞かせられないだろう?」

 藍蝶蝶が肩をすくめる。程なくして胡廉が戻ってくると、藍蝶蝶はため息とともに椅子に腰を下ろし、居並ぶ三人を見回した。

ごう教主が衡山に来られた。あたしに辰煌台に帰れって」

 韓凌白と何仁力は顔を見合わせた。二人の横では胡廉が無言で頷いている。その様子に、韓凌白が

「知っていたのか」

 と問う。

「私は直接は会っていません。蝶姐だけをお呼びでしたので」

 胡廉が答えると、何仁力が「何用だった」と聞く。藍蝶蝶は両手をくるりと返し、

「そろそろをしろってさ。あの計画を実行するから」

 と答えた。

 四人の間に沈黙が垂れ込める。いずれこうなることは分かっていたが故の沈黙だった。どこぞの間抜けを岳伯都として蘇らせたことで十年ぶりに動き出した計画が、間もなく大詰めを迎えようとしている――重く沈み込むような高揚感はしかし、毛先からぼたぼた水を垂らしながら現れた岳伯都によってぶつ切りにされた。

「蝶蝶さん! まだ行ってないですよね⁉」

「ちょっと! 髪を洗わないなら濡らさないでって何回も言ってるでしょう!」

 途端に胡廉が目尻を吊り上げ、詰め寄られた岳伯都がヒッと小さく悲鳴を上げる。その様子に藍蝶蝶はぷっと吹き出すと、

「心配しなくても、今晩はまだいるよ。お暇の挨拶もまだしてないんだから」

 と言った。岳伯都は安堵の声を上げたが、次の瞬間には浴巾を奪った胡廉によって頭を乱暴に拭かれ始める。そんな二人を眺めてふっと笑うと、藍蝶蝶は立ち上がって出ていった。

「じゃあ、あたしは張掌門を探してくるよ。帰るなら帰るで筋は通さなきゃ、ね?」



***



 翌朝早く、藍蝶蝶は衡山を降りていった。とはいえ別れを惜しんでいる暇はなく、岳伯都と韓凌白と何仁力は引き続き試合に出なければならない。三人を見送った胡廉は一人観覧席に座り、競技場をぐるりと一望した。

「おや、今日はお一人なのですか」

 ふと背後から柔らかな声がした。振り返れば、白い法衣に身を包み、白金の如く輝く顔に如来像のような微笑を浮かべた素懐忠が立っている。

「ええ、まあ。素懐忠殿」

 胡廉が気のない返事をしたにもかかわらず、素懐忠は微笑を崩さずに隣の席に滑り込んだ。

「それは奇遇ですね。よろしければご一緒しても?」

「ええ、どうぞ」

 胡廉が頷くと素懐忠は礼を述べる。その図太さに胡廉は胸の内で毒づいた――さすが中原の群侠をまとめているだけあって、清らかな顔のわりにやることが抜け目ない。

「そういえば、怪我はもう良くなられたのですね。我が共志会の者に刺されたと聞いていましたが」

「これでも医術に身を捧げているのでね。早く治す方法ならいくつか心得ていますよ」

 胡廉は負けじと笑顔を作った。何とか話をこちらの都合に持っていかなければ、素懐忠のに手管に取り込まれてしまう――ここにもまずい手合いがいたかと思いつつ、胡廉はそれをおくびにも出さずに素懐忠と試合の話を始めた。



 そして、全ての試合が終わったその日の夕刻。ついに頂点を争う十六人が確定し、張正鵠より発表された。

 まずは今回が初参加の若者たち——百発百中の弓使い飛雕、身軽さと速度が自慢の令狐珊、そして簫九珠。

 中原正道の侠客たちからは、強面の槍使い燕南帰と盲目の女侠雪月影、書生の李宣が残っていた。五岳派からは嵩山すうざん派の掌門呉松公ごしょうこう衡山こうざん派の高弟虞鴛ぐえんの二人が勝ち上がり、華山派出身の令狐珊と合わせて三人が勝ち残る結果となった。

 天曜日月教からは韓凌白、何仁力、欧陽丙の三名。

 そして優勝候補と目される四人の達人たち、素文真、知廃生、常秋水、南宮赫。

 ここに岳伯都を加えた十六人が、十二年に一度選ばれる江湖一の座をかけて争うことになった。

 栄光に輝くのはただ一人、残るは皆敗者である。龍虎比武杯もいよいよ佳境を迎えていた。

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