幕間:龍虎名冊

三尺掃塵、五招妙手

 二日目の予選を終えた夕暮れ時、車椅子を押す付き人の如竹じょちくと談笑しながら宿舎に戻った知廃生ちはいせいは、如竹が部屋の戸を開けた瞬間にびくりと身をこわばらせた。部屋の真ん中、食卓の前に偉丈夫が一人、入り口に背を向けて立っている――しかし警戒したのもつかの間、振り返った偉丈夫に二人は胸を撫で下ろした。

秋水しゅうすい

「兄上」

 白を基調とした長袍、堂々たる体躯、背中で波打つ黒髪に他人を寄せ付けない鋭い目つき。彼こそが現在の江湖で最強の剣客と名高い、「三尺掃塵さんじゃくそうじん」こと常秋水じょうしゅうすいだった。

 血肉を分けた兄弟であり、片や妙絶の掌法、片や絶世の剣術で名を馳せているものの、知廃生と常秋水の関係はあまり広くは知られていない。それはひとえに常秋水が知廃生を公の場で「兄」と呼ばないからであり、したがって今回の龍虎比武杯でも偶然一緒にならない限り弟と言葉を交わすことはないだろうと知廃生は思っていた。それが突然、彼の方から出向いてくるなど珍しい。

 よほど急を要するのか、常秋水は知廃生が訳を尋ねる前に

「事情が変わりました」

 と言った。

「何が変わったのかね」

「参加者の名簿に変更があり、明日の取り組みの内容が変わりました。先ほど林副掌門が講堂にて告知を出していました……その結果、私は不戦勝になったと」

 知廃生は扇子をもてあそびながら「ほう」と呟いた。どうりで人知れず兄の帰りを待ち構えていたわけだ。

「だが、今更戦って勝てない相手でもなかったのだろう? 英気を蓄えると思って受け入れたまえ」

 知廃生が言うと常秋水は不服そうに頷く。血気盛んな弟に微笑を浮かべると、知廃生は如竹に言って部屋に入った。食卓を無視して隅にある寝台に向かい、如竹に支えられながら寝台に移る知廃生を、常秋水は無言のまま視界の端に留めている。

 彼が車椅子に乗っているのは敖東海ごうとうかいによって経脈を断たれ、生死の境をさまよったことに端を発する。幸いにも一命を取り留め、武功が廃れることもなかったが、どれだけ内功の奥義を極めても以前のように自由に動けなくなってしまったのだ。実戦においても大技を五つ放つのが精一杯だ――とはいえ、その五招は凄まじいまでの内功に裏打ちされており、よほどの達人でない限り打ち破ることは不可能だった。人呼んで「五招妙手ごしょうみょうしゅ」、温和な外見も相まってなかなか厄介な手合いである。

「お疲れですか。試合は二招で制しておられたのに」

「第一式を使った後に第四式まで飛ばしたのだよ。おかげで少し堪えた」

 知廃生は靴を脱ぐとそのまま寝台に横たわった。

「私のことより、お前の話をもっと聞かせてくれないか。誰か予選を辞退したのかね?」

「逆です。参加者が一人増えました」

 常秋水の答えに知廃生は目を丸くした。誰がと尋ねると、常秋水は李宣の名を答える。

「李宣……峨嵋筆がびひつの李宣か」

 知廃生は独り言のように呟いた。

「峨嵋筆は虎王拳が唯一認めた知己だった。旧友の復活に血が騒いだか」

「そうでもないようです」

 常秋水は答えると、李宣が岳伯都に挑戦状を叩きつけた一件と、話が衡山じゅうに広まっており、皆の注目の的となっていることを語って聞かせた。

「やはり天曜日月教の動向を疑っての行動かと。たしかに、敖東海の手によって失踪した岳伯都が敖東海の手下と共に現れたとなるとにわかには信じがたい」

「そうだな。それに今回はかの李玉霞りぎょくかにも案内状が届いたと聞く。公天の乱で消息を絶ってから十年近く経つというのに、よくも居所を掴んだものだ」

「それにこの年月で弟子まで取っていた。全く驚くべき女人です」

 知廃生は肘をついて体を起こし、常秋水を見つめた。いつにも増して鋭い眼差しは一体何を見つめているのか――かつて覇を競い合った李玉霞その人か、はたまた彼女の弟子だという簫九珠という青年か。

「秋水。此度は誰を討ちたいのだ」

 知廃生が尋ねると、常秋水は「無論、全員を」と答える。

「だが一番は?」

 この問いには常秋水は答えなかった。

「……兄上は、あの青年について何か知っていることはないのですか」

 代わりに投げられた問いに知廃生は思案を巡らせた。知廃生は普段、江湖の侠客たちについて様々な記録を付けている。簫九珠についても当然調べていた――真っ二つに折れた剣、あるいは両手の剣指のみで、消えたと思われていた剣術を再び江湖にもたらした青年剣客。その過去も、隠された秘密も、知廃生は全て知っていた。

 だが、ここで彼の知る答えを言ってしまうのは面白みに欠ける。そう思った知廃生は、

「三十六年前の龍虎比武杯を思い出しておくといい」

 とだけ答えてもう一度布団に体を預けた。

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