かつての友は今日の他人(二)

 張正鵠が言葉を切り、彼の潜んでいる窓をきっと見据える。岳伯都は飛び上がり、慌てるあまり自分の足につまづいて転んでしまった――そして素懐忠たちは「うわっ!」と声を上げて頭から地面に突っ込む岳伯都の姿を見てしまった。途端に李宣が眉を吊り上げ、

「お前!」

 と声を荒げる。そのまま歩み寄ろうとした李宣を制するように、張正鵠が素早く尋ねた。

「それは賛成ということでよろしいですかな」

「え、ええと……はい……」

 岳伯都は答えながら起き上がった。どこも擦りむいてはいなかったが、思い切り打ち付けた手のひらや膝がジンジン痛む。岳伯都は張正鵠にいざなわれるままに、素懐忠たちの後ろについて建物の中に入った。



 張正鵠は中央の敷物を挟んだ卓に皆を座らせると、自身は一番奥にある大きな椅子に腰を下ろした。岳伯都はなぜか一番上の席に通され、正面に座る林信君と隣に座る素懐忠をおろおろと見回した。素懐忠の向こうでは李宣が岳伯都を睨んでいる――しかもこの李宣、初戦を勝ち抜いた岳伯都を不服そうに見つめていたあの書生ではないか。おまけに林信君の後ろにはつい先ほど庇ってもらったばかりの段紫雲だんしうん夫人が控えている。いたたまれないことこの上ないというのに、空気を読むことのない腹の虫が思い切り鳴いたせいで岳伯都は立派な巨躯を縮こまらせた。

「おや。鍛心堂では何も召し上がられなかったのですか」

「それどころではなかったのよ。すぐに何かご用意いたしますわ、岳大侠」

 ふと目を丸くした林信君に段紫雲が答える。彼女はしなやかな所作で立ち上がると、小走りに建物を出ていった。


 張正鵠は残った男たちを見回すと、まず李宣に話をするよう言った。

「張掌門にお願いがございます」

 李宣りせんは前置きもなしに話を始めた。その目は岳伯都を睨みつけたまま微動だにしない。

「龍虎比武杯に参加する許可をいただきたい。この男が本物の岳伯都なのかどうかこの身で確かめてやりたいのです」

 岳伯都はちらりと張正鵠と林信君を窺った。林信君は溌剌とした眉根にしわを寄せて明らかに考え込んでおり、張正鵠はあごひげを撫でながら険しい顔でふむと呟いている。

「ここ百年以内においては、大会が始まってからの飛び入りは認められていなかったかと」

 林信君が言うと、張正鵠が頷いた。

「いかにも。それをすると収拾がつかなくなるのでな」

「規則のことは存じております。ですが私は完全に飛び入りということではありませんし、どうか認めてはいただけないでしょうか」

 李宣は全く怯むことなく二人に割って入った。

「たしかに先生は前日には衡山に着いておられました。実力もおありですし、何より冗談を言っているわけではないことはこの私が保証します」

 素懐忠も助け船を出す。

 そして岳伯都はというと、彼らが話し合っている間、衡山の山道で目が合った書生のことを思い出していた——今思えば、このときの書生も李宣だったのだ。彼があの瞬間からずっと信じがたい思いでいたことに岳伯都はようやく気がついた。彼が知っている生前の岳伯都といえば、十二年前の龍虎比武杯で優勝したことと天曜日月教を憎んでいたことぐらいだ。誰と交友があったかは韓凌白たちは一切話題にしなかった。

 それでも、別に機会ぐらいやってもいいのではないか。彼は渋い顔の張正鵠と林信君を見ているうちに李宣が可哀想になってきた。

 それに龍虎比武杯では勝敗が全てだ。彼は一戦目を終えて初めてそのことを実感していた。性格は多少変わっていても実力は岳伯都その人に違いないと少しでも多くの者に思わせるには、彼自身が勝ち続ける以外に方法はないのだとも感じていた。もし李宣がその妨げとなるならば、彼もこの渦に巻き込んでやればいい。直接対決せずとも、どちらがより勝ち進んだかという結果は彼に有無を言わせないはずだ。

「……あの」

 岳伯都は深呼吸して口を開いた。途端に全員の注目が彼に集まる。

「僕は、李宣先生の出場は問題ないと思うんです」

 おずおずと言った岳伯都に、素懐忠がすかさず尋ねた。

「何故そう思われるのですか?」

「だって、龍虎比武杯は完全な勝ち抜き戦なのでしょう? 僕も李宣先生も負けたらそれまでですし、それに最初の予選もあと一日残っていますし。今からでも遅くはないかと思うんです」

「つまり、どういうことなのでしょうか」

 林信君が尋ねる。岳伯都は唾を飲み込むと、

「僕が李宣先生の挑戦を受けたいんです。この、龍虎比武杯という実力だけがものを言う場で」

 と言った。

「大勢の人が僕を疑っているのは知っています。李宣先生が他の誰よりも僕を怪しく思っていることも分かっています。だからこそ僕は彼の挑戦を受けたいのです。僕が他の誰でもない、岳伯都だと証明するために」

 岳伯都はそう言うと、床に直接正座して両手をついた。途端に張正鵠と林信君、素懐忠が顔色を変えて彼に起き上がるよう言う。

「前回大会の覇者のたっての希望とあらば、我々も従わぬわけにはいきますまい。李宣先生の参戦を認めましょう」

 諦めの色とともに張正鵠は言った――李宣がふっと顔を上げ、林信君が良いのですかと尋ねる。張正鵠は改めて頷くと、林信君に対戦表の作り直しを命じて去っていった。



***



 果たして翌日。

 その日の初戦に組み込まれた李宣は、両手に持った二本の筆を峨嵋刺がびしのごとく扱い、書生にあるまじき身のこなしで勝利をもぎ取ってみせた。


「本当に良かったのか」

 歓声の中、競技場を後にする李宣を見ながら韓凌白が尋ねる。

「でも、岳伯都が誰と付き合っていたかなんて教えてくれなかったじゃないですか。もし彼が自分で言うように岳伯都のことを一番よく分かっているんだったら、その彼に分からせるのが一番だと思うんです」

 岳伯都が答えると、何仁力がうむと頷く。

「たしかに、誰に気を付けるべきか言っていなかったのは我々の落ち度に相違ない」

「だが、岳伯都をよく知る者ほどお前の変わりようが信じられないのではないか。勝敗でどうにかなる問題だとは思えぬぞ」

「それでも、彼に勝つことには意義があるはずです」

 変わらず苦言を呈す韓凌白に、岳伯都はきっぱり反論した。

「だって、昨日よく分かったんです。僕が本当に岳伯都だとみんなに思わせるには、より高い順位まで勝ち上がらないといけない」

 韓凌白と何仁力は目を丸くして互いに顔を見合わせた。一か月前、彼を蘇らせたときには、こんな言葉が聞けるとは思ってもみなかったのだ。

「変わったな。岳伯都」

「ああ。だが、それでこそ江湖人だ」

 韓凌白が呟き、何仁力が岳伯都の肩をがっしり抱く。岳伯都は迷わずその肩を抱き返した。

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