かつての友は今日の他人(一)

 岳伯都は林の中を適当に歩き、大きな建物の下で腰を下ろした。白い壁にもたれかかり、息を吐いて空を見上げる――試合の喧噪を遠くに聞きながら流れていく雲を眺め、それから目を閉じると、朝から張りっぱなしだった緊張の糸がようやくほぐれていく。同時に腹が盛大に鳴り、何か食べろとせっついてくる。岳伯都はぼんやりと昨日の昼食と、観覧席を回って皆に軽食を渡していた緑色の校服の子どもたちを思い出した。今からあの子たちを探して、余りがあれば分けてもらおうか。そう考えて立ち上がろうとしたとき、ふいに建物の中から段夫人の声が聞こえてきた。彼女はまだ怒りが収まっていないらしく、声高に訴える言葉の端々に「鍛心堂」「岳大侠」という言葉が聞こえてくる。岳伯都は近くの窓に忍び寄ると、背伸びをして中を覗き込んだ。

 そこはだだっ広い部屋だった。正面の入口から部屋の奥までを貫くように敷物が敷かれ、その両側に低い卓が並べられていたが、それ以外には何も置かれていない。その絨毯の中ほどに段夫人と林信君りんしんくん、それに掌門の張正鵠ちょうせいこくが立っており、どうやら段夫人は鍛心堂の件を夫と掌門に訴えているらしかった。林信君は怒り心頭の妻を落ち着かせるように彼女の肩に手を添えていたが、その面持ちには同情と一緒に苛立ちが入り混じっている。

「伯父上、これではらちが明きませんわ。皆岳大侠を疑うばかりで、龍虎比武杯の本分も規則も忘れてしまっているようです」

「師伯、実は私も紫雲しうんと同じ話を何人もの方から聞いています。此度の岳伯都英雄の出陣は何かがおかしいと、誰もが感じているようです。現在は誰も過激な行動に出そうな気配はないですが、正直に申しますとこれも時間の問題かと」

 林信君が言うと、段紫雲が「そうですわ!」と賛同の声を上げた。

「今ここで手を打たないと、龍虎比武杯始まって以来の不手際として未来永劫語り継がれてしまいますわ。伯父上、どうかご決断を……」

 すると、難しい顔であごひげを撫でるばかりだった張正鵠がすっと手を挙げて段紫雲を遮った。

「まだ私のところには訴えは届いていない。それはつまり、本気で反対しようという心意気の者はいないということではないか?」

 その一言に林信君と段紫雲は揃って目を丸くした。

「ですが師伯、」

「もし誰かが――今の話を聞く限りでは事を起こすとすれば正道を名乗る者であろうが、仮に誰かがお前たちを相手に徒党を組むようなことがあれば、その時は私が対処しよう。今は意見があるなら主催者であるこの私に話せとだけ言っておけばよい。とはいえ、最終的な決定権は私にあり、その決定も掟に従って下される以上、彼らの訴えが通ることはまずないがな」

 張正鵠はここで深く息を吸い、またあごひげを撫でつけた。

「まあ、そのために小細工をしようものならかえって天曜日月教の潔白が証明されてしまう故、道義を掲げる者ならば尚のこと変な気を起こすことはないだろうが。とにかく、我々が手を打つ必要はまだないということだ。不満があるなら直接私のところに言いに行けと言えば事足りよう」

 ふと、張正鵠が岳伯都のいる窓の方を見た。岳伯都は慌てて頭を下げ、急にうるさくなった鼓動を意識の外に追い払いながら壁の向こうに耳をすませる。どうやら張正鵠は彼には気付かなかったらしく、少し間を置いただけですぐに林信君夫妻に向き直った。

 岳伯都は胸を撫で下ろし、すぐにその場を離れることにした。白壁に沿って足を忍ばせ、頭の先が窓から見えないよう腰をかがめて移動していた岳伯都は、あと少しというところで建物に向かって歩いてくる足音と話し声を聞きつけた。

李宣りせん先生、お気持ちは分かりますが虎王拳は強敵です。どうか考え直してください……」

「止めてくれるなと言っているだろう、素懐忠そかいちゅう!あいつの強さは私が一番分かっているし、本当にあいつなのかどうかを確かめたいだけだ。命を賭してやり合うわけではない」

 一人は素懐忠だったが、もう一人の李宣という男の声は初めて聞く。岳伯都はとっさに壁に貼りついたまま――うかつに動くと見つかるかもしれないと思うと余計に動けなかった――二人の話に耳を傾けた。

「ですが、もし岳伯都と対戦する前に脱落してしまったら? 先の試合で使われたのは確かに虎王拳の武功でしたし、実力で敵わないことは先生もよくご存じでしょう。どうしても対戦したいのであれば、期を改める方が確実かと思います」

「そんなことをして、もしあいつが岳伯都の名と姿を騙っているだけの偽物だったらどうするのだ! もし皆があれを本物の岳伯都だと認めることが天曜日月教の策略だとしたら? もしあの岳伯都が敖東海の手先で、ここにいる全員を利用するためにあいつに成り代わっているだけだとしたら……それなのにどうして待つことができる? それに私は、何よりも、あいつが別人のように天曜日月教に追従する姿や、別の奴があいつの名を騙って好き勝手するところは見たくないのだ!」

 李宣はひどく興奮して、素懐忠がなだめようとするたびにかえって気焔を上げる始末だった。衡山に来てからというもの疑いの目をかけられっぱなしの岳伯都だが、これほどまでに苛烈に異を唱える者は李宣が初めてだ。そして彼の言葉を聞く限り、どうやら彼は生前の岳伯都とかなり仲が良かったらしい。その証拠に、彼の発言をまとめると「十年前に消息を絶った岳伯都以外は岳伯都と認めない」ということになる。

「では、もしも先生が岳英雄を」

「あんな輩を英雄などと呼ぶな!」

 再び口を開いた素懐忠だったが、李宣の怒鳴り声にすぐに遮られてしまった。しかし素懐忠は冷静に「分かりました」と答えると、

「もし先生があの岳伯都に勝ったら、先生はどうするおつもりなのですか?」

 と改めて言い直した。

「それはもちろん――」

 意気込む李宣はしかし、建物から出てきた張正鵠によって遮られた――それもそのはず、なぜなら彼は建物の中の三人にも十分聞こえるほどの大声でずっと話し続けていたのだ。

李宣りせん先生、素懐忠そかいちゅう領袖りょうしゅう。ご相談がおありのようですな」


 岳伯都はついに近くの窓に忍び寄り、首を伸ばして開け放たれた入り口の様子を盗み見た。素懐忠たちの姿こそ見えないが、張正鵠と林信君夫妻は三人とも入り口の方を向いて立っており、彼らの視線の先に素懐忠と李宣がいるのは間違いない。

「失礼ながら、お二人の話が聞こえてきましてな。岳伯都殿のことでお話があるのでしたら、そうですな……良ければ、本人を交えて話してみては如何ですかな? もちろんあなたの異論がなければですが、岳伯都殿」

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