疑惑の上塗り

 競技場を後にした岳伯都は「鍛心堂たんしんどう」の扁額へんがくがかかった建物に通された。そこには林信君と同じ深緑の衣を来た女人が立っており、岳伯都を認めると膝を折って一礼した。

「おめでとうございます、岳大侠。簡単ではありますがお茶とお食事を用意してございます。どうぞおくつろぎくださいな」

 無骨で地味な者ばかりの龍虎比武杯において、彼女の話し方と身のこなしは優雅で美しく、ほっそりした体を包む衣や装飾品を見てもあまり体術に長けているようには思えない。しかし、浮きたつような高揚感に満たされていた岳伯都は特に何を思うこともなく、彼は一言礼を言って観音開きの扉を勢いよく開け放った。

 その瞬間、部屋の中の目という目が岳伯都の方を向いた。驚いて固まる岳伯都を尻目に、隅の席にいた飛雕ひちょうが声を上げる。

「へえ。あんた、勝ち上がったのか」

 通常ならお小言間違いなしの無礼な発言だった。しかし皆、飛雕の方を見はしたものの誰一人として彼を咎めない——それはつまり、ここにいる全員が多かれ少なかれ彼と同じ心情であるということだ。しかも顔ぶれを見るに、ここに集められているのは皆一戦目を勝ち抜いた者らしい。

「はい、まあ……」

 岳伯都があいまいに答えると、今度は別の者がフンと鼻を鳴らした。

「勝ったと言っても、大方あの邪教徒どもが裏で細工でもしたのだろう。でなければお前のような根性無しが勝ち上れるものか」

 それはいつか衡山の下でやり合った共志会の男の一人だった。

「そうでなくても天曜日月教の連中は何か企んでいるに決まっている。でなければ、なぜ虎王拳ともあろう者が奴らに味方して龍虎比武杯に出るのだ?」

「そうだ、それに岳伯都は江湖の誰よりも天曜日月教を嫌っていたんだ。奴らに何かされたんでなきゃ辻褄が合わない!」

 皆口々に疑念と推論を並べ立て、岳伯都のことを天曜日月教のだと言い合っている。まるでそうすることで自分たちの結束を確かめるような空気が流れる中、飛雕が立ち上がって岳伯都に詰め寄った。

「なあ、あんた、一体奴らとどういう関係なんだよ? どうして奴らと一緒に龍虎比武杯に出てるんだ?」

 がやがやと賛同の声が上がり、岳伯都はますます困惑した。唯一、簫九珠しょうきゅうじゅだけが何も言わず、ただじっと岳伯都を見つめていた。しかしその目も決して優しいものではなく、むしろ岳伯都を凝視することで真実を探し求めているかのようだ。

「皆様、どうされたのですか?」

 岳伯都の背後で先ほどの女人の声がした。どうやら彼が戸口で動かないのを見て助け舟を出してくれたらしい。

だん夫人! 夫人からも何か言ってやってください。それともあなた方衡山派は、邪教徒どもが自分たちの土地で好き勝手するのを容認しているとでも言うのですか!」

 姓を段というらしいこの婦人は、突然話を振られて目を丸くした。

「何故そのような結論になるのでしょう。今この時における衡山派の使命は、偉大な前輩方の定められた規則と精神に則って此度の龍虎比武杯を成功させることであり、個々の信条は関係ないはずです」

「そうは言っても、天曜日月教が岳伯都に何をしたのかあなたも知らないはずはないでしょう。奴らが何を企んでいるのか、怪しいとは思わないのですか?」

「もちろん存じておりますわ。ですが、それだけを根拠に彼らを龍虎比武杯から締め出すのは大会の規則に反します。龍虎比武杯は一切の恩讐が考慮されない公平な場であり、この公平性を私情で曲げることは決してできません」

 段夫人はそう言いながら岳伯都を押し退け、声を荒げる侠客たちと対峙した。

「私も衡山派の一員として、大会の規則を捻じ曲げるようなことはいたしません。我々のやり方にご不満があるのなら、ご自身の技で以て皆様方の正統性を証明してください」

 段夫人は毅然とした態度で言い切った。この言葉にいきり立っていた侠客たちの一部が黙り込み、思い直すように頷いたり目線を逸らしたりする。ところが、

「ご高説だな。何の武功もできないくせに、副掌門の妻だからって俺たちが言うことを聞くとでも思ったか?」

 誰かがせせら笑い、途端に段夫人の顔が引きつった。

「何ですって?」

「あんたは林信君りんしんくんがたまたま副掌門になったから俺たちに偉そうな口を利いているんだろう。何の実力もない奴が実力を語るなど、とんだ笑い話ではないか!」

「お黙りなさい! 実力の有無と規則の遵守に何の関係があるのですか!」

 ついに段夫人が声を荒げた。その気迫のこもった響きに岳伯都は肩を跳ねさせ、思わず半歩後ずさる。

 すると、ずっと黙っていた簫九珠が初めて声を上げた。

「岳殿は龍虎比武杯の規則に則って試合をし、自らの力で次に進んだ。今はそれだけで十分だろう。それに我々がどれだけ騒ぎ立てようと、衡山派は彼らが規則を破るまで天曜日月教には手を出すことはできない。それは諸兄も重々承知のはずだ」

「……九珠剣客の仰るとおりですわ」

 段夫人が低い声で言う。

「私たちは龍虎比武杯の規則に従って大会を滞りなく進めるのみです。各々が天曜日月教のことをどう思っていようと、我ら衡山派の弟子たちは皆私情を排除して与えられた責務を果たしています。ですから皆様もどうかご協力ください。龍虎比武杯が公平であるためには、会に携わる全員の辛抱が必要なのです」

 段夫人は膝を折って頭を下げると、そのまま踵を返して行ってしまった。


 鍛心堂の中には沈黙が満ち、誰もが口を閉ざして互いの様子を窺っている。簫九珠だけが踵を返してもとの席に腰を下ろし、岳伯都を見て隣に座らないかと尋ねた。

「あ……いや、僕は、」

 岳伯都は口ごもりながら周囲を見回した。簫九珠の好意はありがたかったが、この空気の中ではとても落ち着いて休めそうにない。

「僕、ちょっと外の空気を吸ってきます」

 岳伯都はそう言うとそそくさと鍛心堂を後にした。やはり彼の存在は皆から怪しまれている――もしこれが確立された規則を持つ龍虎比武杯でなかったらと思うと気が気ではなかったのだ。

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