偽の英雄か、それとも

 天幕の外に出た途端、岳伯都は明るい日差しと観衆の声に包まれた。目の前には縄で四角く区切られた競技場があり、今まさに簫九珠が刀客を相手にしているところだった――刀客は筋骨隆々、そびえ立つような巨躯を持ち、刀も刃渡りが異様にある。峰には等間隔に金属の輪が付けられ、持ち主が一振りするたびにチャリン、チャリンと音を立てていた。一方で簫九珠は男の肩までしか背丈がなく、なんと手には何も持っていない。鞘に入った長剣こそ背負っていたが彼がそれを抜く気配は全くなく、右手に結んだ剣指のみで大刀にも勝る威力を発揮していた。「動かざること泰山の如し」という言葉があるが、簫九珠はまさに山のように構えてこの大男を圧倒していたのである。

 そして、勝負のときは程なくして訪れた。大男が雄叫びを上げて跳躍し、簫九珠の脳天めがけて渾身の力で刀を振り下ろす。しかし簫九珠は顔色ひとつ変えずに左手を背中に回し、降ってきた刃を右の剣指で受け止めた。観衆が一斉に驚きの声を上げる中、簫九珠は男を放し、さらに男の手首と胸を立て続けに打つ。刀が宙を飛び、男は縄まで一気に飛ばされた。群衆が興奮気味に騒ぎ立てる間にも簫九珠は一瞬のうちに男に追いすがり、喉元に剣指を突き付けた。

「そこまで!」

 林信君の声が響く。その途端、周囲のどよめきが割れんばかりの歓声に様変わりした。

「勝者、簫九珠!」

 この一言が聞こえて初めて簫九珠は男の喉から手を離した。拱手して一礼し、緊張が解けたかのようにふうと息を吐いて競技場を後にする姿に、岳伯都は口をぽかんと開けたまま見入っていた。

「『九天剣訣きゅうてんけんけつ』は使わなかったか。それに断剣だんけんも使っていない……李玉霞りぎょくかの弟子を名乗るほどなのだから、初戦から全てぶつけてくるかと思ったが」

 隣で試合を見ていた男が独り言のように言った――岳伯都がこれから対峙する相手だ。岳伯都が振り返ると、その男は岳伯都を見、当たり前だと言わんばかりに眉を吊り上げた。

「まさか忘れたのか? 李玉霞と九天剣訣といえば龍虎比武杯の伝説なのだぞ⁉ 三十六年前の龍虎比武杯は彼女の大会と言っても過言ではない。こちらにおわす虎王拳までもが九天剣訣の前に敗れ去ったのだぞ」

(……この人、僕のことを疑っているな)

 岳伯都は心の中で独り言ちた。もしこの話が本当なら、簫九珠はある意味で彼の因縁の相手ということになる。

 それに、韓凌白たちは話題にしていないが、岳伯都の登場を怪しんでいる者はやはりそれなりに存在する。自身に向けられる視線からそれを感じ取れないほど、岳伯都も鈍感ではないのだ。

「そうですか。ところで、その断剣というのは……」

 ここは話題を変えようと岳伯都が尋ねると、途端に男は「はあ⁉」と大声を上げた。

「断剣は断剣だろう! あいつの鞘の中身は真っ二つに折れていて、だから断剣と呼ばれているのだ。まさか十年間行方不明だったから聞いたことがないとでも言うつもりか?」

 岳伯都は慌てて茶を濁し、それきり口をつぐむことにした。これでは何を話題にしてもかえって墓穴を掘るだけだ。



 そうこうするうちに二人の番が来た。脇に控えていた衡山派の弟子に促され、岳伯都は男と並んで縄の中に入る。

 その途端、あれほど盛り上がっていた群衆がぴたりと静まり返った。聞こえるのは小声でささやき交わす声ばかり、皆が訝しげな目つきで岳伯都を見つめている。

 一変した空気の中、岳伯都は男と中央まで歩いていき、向かい合って互いに一礼した。

「構え」

 林信君の声までもが心なしかこわばっているように聞こえる。対する男は合図とともに右手をひねり、何もなかった空間に鎖鎌を取り出して振り回し始めた。

 岳伯都は生唾を飲み込むと片足を引き、腰を落として構えを取った。異様な静寂が場を支配する中、相手の男が大きく息を吸って吐く。


「……始め!」


 林信君の合図とともに男が鎌を投げつけた。狙い違わず飛んできた鎌に岳伯都は小さく悲鳴をこぼし、慌てて後ろに飛び退いた。彼がいたまさにその場所に鎌は落ち、追いすがった男によって拾われた。岳伯都は体勢を立て直そうとしたが、男は鎌を振り上げて岳伯都に斬りつけてくる。右に左に攻撃をかわしながら隙を窺ううちに、岳伯都はあっという間に競技場の端まで追い詰められた。


 男がしたり顔で笑い、嘲りと呆れの混じった野次が観衆の中から聞こえてくる。今や誰もがこの「虎王拳」は偽物だと思い込んでいた。素人の下手な芝居だから無名の徒にすら勝ち目がない、皆そう思っているに違いない――岳伯都は鋭く息を吐くと、もう一度男を見据えて構えを取った。皆の考えていることもあながち間違いではないのだが、かと言って勝負を放棄するわけにはいかない。それに先ほどの攻勢を見るに、どうすれば良いかが分かったような気がしたのだ。


「まだやるつもりか」

 男が嘲笑とともに言う。その手は再び鎖鎌を振り回している。

「虎王拳そっくりに化けたようだが、大したことはなかったな。これでも食らえ!」

 男は鎌を投げ、ギラリと光る刃が岳白都めがけて真っ直ぐに飛んでいく。しかし岳伯都は微動だにせず、鎌の先が彼の肉を貫くかと思われた――



 その瞬間、岳伯都はハッと気合いを発すると、鎌を手刀で叩き落とした。まさか反撃されるとは思っていなかったのか、男はぎょっと目を見開き、鎌を回収しようと慌てて鎖を引く。岳伯都はとっさに足元の鎌を拾い上げ、鎖を思い切り引っ張り返した。当然男は岳伯都の力に負け、前方に倒れ込むようにたたらを踏む。

 今や男は完全に無防備だ。岳伯都は鎌を投げ捨てると、両腕を大きく回して自分から打って出た。助走をつけ、内功を込めた右手を固く握り、相手の胸を狙って真っすぐ突き出す。今や形勢は逆転し、今度は男が岳伯都の一撃をもろに受けるかに思われた。

 そのとき、岳伯都の耳に悲鳴のような吐息が聞こえてきた。男は今や両目を固く閉じ、空の両手で体を守ろうとなけなしの抵抗を試みている。

 岳伯都は我に返り、すんでのところで動きを止めた。拳に集めた気のみが男に襲いかかり、しかしそれも男の全身を強烈に撫でただけで一切傷を負わせない。拳から胸まで布一枚を隔てるのみという距離感で二人は静止し、二人分の上気した呼吸だけが互いの耳に響いていた。

 勝敗は決した——しかし会場は驚愕に支配され、誰もが言葉を発することを忘れていた。林信君さえもがぽかんと口を開けたまま、試合終了の合図を出していない。沈黙の中、岳白都はふとくぐもった水音を聞いたような気がした。それと同時に、男が糸が切れたように尻餅をつく――その地面に液体が漏れ出て広がっていくのを岳白都は首をかしげて見つめていた。


「只今の取り組み、勝者は岳伯都!」

 張正鵠ちょうせいこくが大声で宣言し、自ら立ち上がって手を叩き始める。すると観覧席の一画から悲鳴のような歓声が上がり、続いてぱらぱらと拍手が聞こえだした。だんだん大きくなっていく喧噪の中、岳伯都はようやく体を起こすと周囲を見回した。

 藍蝶蝶と胡廉が観覧席の最前列で飛び跳ねながら歓声を上げている。その後ろでは素懐忠が静かに手を叩いていて、隣に座る若い尼僧と言葉を交わしている。尼僧もまた、素懐忠と話ながらも惜しみない拍手を送ってくれていた。対する出場者用の観覧席では、やはり最前列で見守っていた韓凌白と何仁力がほっとした様子で手を叩いている。天幕の方を振り返ると、次に控えている知廃生が力強く頷いてくれた。

 ついには誰かが「虎王拳こおうけん」の名を叫び始め、観衆の声は次第に一つにまとまっていった。多少疑わしい再登場であるとはいえ、十年ぶりに復活した虎王拳・岳伯都を皆が受け入れたのだ。

 一方で、中には不服そうな顔の者、非難の声を上げている者もいた——岳伯都はふと、どこかで見た顔の書生が暗い面持ちで彼を見ているのに気がついた。ところが、岳白都と目が合った途端に書生はふいと踵を返し、すぐに人海の中に消えてしまった。

 それでも、今は勝利の興奮の方が岳白都の中で勝っていた。岳伯都は書生のことをすぐに忘れ、安堵に笑いながら男に向き直って一礼した。

 男は憤怒の形相で岳伯都を睨みつけると、おぼつかない膝をついて無理やり立ち上がり、衣からぽたぽたと水滴を落としながら振り返りもせずに行ってしまった。

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