噂、誼、仇敵

 天幕の中には試合を前に浮足立った侠客たちがひしめき合っていていた。欧陽丙おうようへいが岳伯都を連れて通路を通っても、皆少し顔を上げるだけですぐに自身の話や武器の手入れに戻っていく。中にはあの虎王拳がいることに気づいたのか、横に座る者の肩を小突いてささやきかける者もいた――欧陽丙は彼らには一切目をくれず、元々彼がいたのであろう天幕の一画へとまっすぐに岳伯都をいざなった。


 そこには簫九珠と衡山の山道で見かけた弓を持った青年、それに車椅子の文士が円になって座っている。欧陽丙は手短に岳伯都を紹介すると、さっさと自分の席に腰を下ろした。

「なんと、なんと。虎王拳が再び江湖に降臨されるとは」

 車椅子の文士が声を上げた。しかし青年は手入れ中の弓から少し顔を上げただけですぐに目線を戻し、簫九珠は先ほどの騒動を見ているせいか、愛想笑いの一つも浮かべずに岳伯都をじっと見つめている。

「前回の覇者と共に戦えるとあれば、この知廃生ちはいせい、此度の大会のことは未来永劫忘れることはないでしょう。試合も精彩を極めることと思います」

「はあ……ありがとうございます」

 おずおずと頭を下げる岳伯都を横目で見て、欧陽丙はフンと鼻を鳴らした。何仁力からは「魂魄の状態に波があるとでも言って適当にごまかせ」と言われたが、この変わりようは波どころでは済まされない。

 しかし、知廃生はさほど気にしていないらしく——或いは故意に気にしていない風を装っているのか、手に持った扇子で膝を軽く叩いている。

「あれから江湖も随分様変わりしたものです。此度の龍虎比武杯には若い面々も多く集っている……岳英雄は、こちらの二人はご存じですか?」

 そう言って知廃生は簫九珠と弓使いの青年を扇子で指した。もちろん岳伯都が知っているわけもなく、彼は素直に首を横に振る。

「ならば、欧陽丙殿は? たしか天曜日月教の教徒だったと聞きかじっておりますが」

「今もまだ教徒ではあります。辰煌台と教の責務から離れて久しいというだけで」

 欧陽丙は眉一つ動かさずに答えた。

「南宮赫に私を愚弄し、右脚を害した報いを受けさせるまでは辰煌台に戻らぬと教主に誓ったのです。その目的を達していないのに戻れるわけがありません」

 欧陽丙はそう言いながら軽く突っ張った右脚をさすった。その手にこもるのは怒りか恨みか、欧陽丙は手を握って腿を叩く。

「それに今回は賭けをしたのです。私か令狐れいこ姑娘クーニャンのどちらかがあの憎き南宮赫より上の順位に立てれば、彼女と私で仇の半分ずつを取ると。すなわち、私は奴の右脚を折り、令狐姑娘は奴の胸を死なぬ程度に刺すことができる」

「令狐姑娘というのは、華山派出身の令狐珊れいこさん女侠ですな。たしか昨日の予選で勝ち残っておられましたか」

 何とも物騒な話をする欧陽丙に知廃生は深く頷く。欧陽丙も愛想こそないものの、知廃生の応答のおかげですっかり饒舌になっていた。

「ええ。ですがあれくらいの相手、華山剣客の星と呼ばれた彼女が勝てないわけがありません」

「随分と彼女を買っておられるのですね。同じ仇を持ったよしみですか」

 ここで初めて簫九珠しょうきゅうじゅが口を挟んだ――この青年、歳の頃は無言のまま弓の手入れをしている青年とそう変わらないのに、醸し出す空気は静謐そのものだった。ともすればこの天幕の中で一番静かなのではないかというほどに彼は静寂をまとっている。

「ハ、九珠剣客もなかなか鋭いことを言われる。しかし、江湖の荒波を乗り越えるためにも同伴はいるに越したことはないとは思わないですかな?」

 知廃生はそう言うと、改めて簫九珠を紹介した。簫九珠は拱手して頭を軽く下げると、それきり彼らの会話に入ることはなかった。



 天幕の外から試合の開始を告げる挨拶と、興奮に満ちた歓声が聞こえてくる。すぐに衡山派の弟子が数人現れ、天幕の中を歩いて出場の近い者に声をかけて回り始めた。そこここから三々五々と立ち上がり、競技場へと出ていく背中を見ていると、岳伯都はまた緊張でどうにかなりそうだった。天幕の外からは早くも野次と歓声が聞こえてきて、試合が始まったことを告げている。


 そしてついに、岳伯都たちの座る場所にも衡山派の弟子がやって来た。

飛雕ひちょう殿、」

 林信君と変わらない年代の女性の弟子が耳慣れない名前を呼ぶ。すると、ずっと押し黙って弓の手入れをしていた青年が弾かれたように顔を上げた。

「出番だな?」

 爛々と目を輝かせ、飛雕は跳ねるように立ち上がった。飛雕はぼさぼさと散らばる長髪を中央に赤い石の嵌った簪でまとめ、収まりきらない前髪を顔の左半分に流し、耳には金の輪が数個と赤い耳飾りが光っている――この天幕の中ではやや異質な装いだったが、この見た目に反して思いのほか幼さを感じさせる振る舞いだ。

 女の弟子は

「はい。どうぞこちらへ」

 と答えると、すでに歩きかけていた飛雕の半歩前に入り込んだ。彼女と入れ替わりにやって来た男の弟子に呼ばれて今度は簫九珠が出ていき、しばらくすると試合の結果を告げる林信君の声が聞こえてきた。歓声の中叫ばれたのは飛雕の名前だ——喧騒に混じって聞こえてくる雄叫びもきっと彼のものなのだろう。そしてまた、天幕に衡山派の弟子が入ってきた。彼は岳伯都たちの方にまっすぐ歩いてくると、岳伯都の前で立ち止まった。

岳伯都がくはくと英雄ですね」

 衡山派の弟子が口を開く。

「対戦のご用意を。競技場までご案内いたします」

 岳伯都はぎこちなく唾を飲み込んだ。心臓が早鐘のように打ち始め、返事をしようにもうまく声が出せない。

「分かりました」

 ひしゃげた声で答えると、岳伯都は震える膝を押さえて立ち上がった。欧陽丙は何も言わなかったが、知廃生ちはいせいは扇子を弄んで「ご武運を」と告げた。

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