第三章 波乱の武林盛会

虎王拳、出陣のとき

 運命の朝が来た。龍虎比武杯の予選二日目、岳伯都が衆人環視の中で初めて武功を披露する日である。


 しかし岳伯都は、衡山派の弟子が運んできた食事を前に何度もため息をこぼしていた。その周りでは天曜日月教の四人があれやこれやと助言を並べたてている。

「いいか。落ち着いて、相手の動きと呼吸に集中するのだぞ。私や何仁力と手合わせをしているときとやることは同じだ。それに力の上では何者にも勝るのだから、あとは心をしっかり持つだけだ」

「この大会に限っては殴られても死なないから、安心しな」

「武術を頼みに世を渡る以上勝敗は付き物、気にしている暇などない。目の前の敵だけを意識し、あとは全て切り捨てよ」

「でも朝餉はちゃんと食べてくださいよ? 腹が減っては戦はできぬって言いますからね」

 岳伯都はのろのろと箸を手に取り、とりあえず粥の椀を持ち上げた。しかし全く食べようという気が起こらずに、また動きが止まってしまう。

「……ダメだね。完全に固まっちまってる」

 藍蝶蝶がかぶりを振って呟いた。韓凌白も眉間にしわを寄せ、

「これでは何を言っても逆効果だろうな」

 と藍蝶蝶に小声で言い返す。

「……ねえ、岳大侠。昨晩、共志会の素懐忠そかいちゅう領袖りょうしゅうが私たちのところに来たんですよ。今日の試合が楽しみだって言っておられましたよ」

 すると胡廉が、岳伯都の前にするりと座って言った。

「そうなんですか? ……でも、素さんは僕があの人の仲間を殺した件で話をしに来たんじゃ」

 岳伯都はわずかに目を持ち上げた。胡廉はこれ見よがしに他の三人に目配せし、

「それはまあ、そうだったんですけど」

 と岳伯都に答える。

「でもすごいじゃないですか、辰煌台しんこうだいを出てもう付き合いができたなんて。普通初めて江湖に出た人はそこで苦労することも多いんですよ。立派な一歩です」

 茶を濁したのもつかの間、胡廉はすぐに岳伯都を褒めてにっこり笑ってみせた。

 そして話を聞くうちに、岳伯都も次第に元気が湧いてくるような気分になってきた。彼は粥を一息に飲み干すと、次々と料理に手を付け始めた。

「さすがだねえ。後宮のゴマ擦り術、あたしも教えてもらおうかしら」

 藍蝶蝶が笑いながら韓凌白を小突く。しかし、四人が胸を撫で下ろしたのもつかの間、岳伯都が食事の手を止めた。

「どうした、岳伯都」

 何仁力が尋ねる。岳伯都は神妙な顔で箸を置き、鳩尾に手を当てた。

「……だめ、吐きそう」

 岳伯都はぽつりと言い残すと、風のように部屋を飛び出してしまった。

「おい、岳伯都!」

 韓凌白が大声で呼びかけ、胡廉と藍蝶蝶が慌てて後を追う。するとほどなくして、思い切り吐き戻す音とともに二人分の悲鳴が聞こえてきた。


「……大丈夫か、凌白弟」

 にわかに白くなった顔で口元を押さえた韓凌白に何仁力が問いかける。韓凌白は軽く咳き込んでから頷くと、はっと思い出したように窓の方を見た。

「待て、今は何の刻だ?」

 


***



 競技場の端に設置された天幕にはこの日の出場者たちが集っている。その入り口では、林信君が未だ姿を見せない岳伯都を待って行ったり来たりしていた。

「岳大侠はまだ来られないのか」

 天幕から若い男が顔を出す。林信君は彼を振り返り、困ったように「九珠剣客」と声を上げた。

「未だ来られません。全員が揃うまで始めぬよう掌門より言われておりますゆえ、どうかもうしばらくご辛抱願えますか……」

 ところが、林信君が言い終わらないうちに、九珠剣客こと簫九珠しょうきゅうじゅはふっと彼の向こうに目を移した。林信君が振り返ると、韓凌白と何仁力に半ば押されるようにして、ひどい顔色の岳伯都がよろめきながらやって来るのが目に飛び込んできた。

「ああ、岳英雄! お待ちしておりました!」

 林信君はそれを見るなり、安堵とも苛立ちとも取れない声を上げてすっ飛んでいった。明らかに様子のおかしい当人に簫九珠が眉をひそめているのは目に入っていないらしい――林信君も加えた三人に導かれて、岳伯都は簫九珠の前に立った。

「ねえ凌白さん……僕まだ気持ち悪いんですけど……」

「そんなもの順番を待っているうちにおさまる。四の五の言わずに覚悟を決めろ!」

「嫌だ……」

「嫌だではない!」

 韓凌白は悲鳴のような怒鳴り声を上げ、それからようやく簫九珠に気が付いた。

「失礼した、小兄弟。林殿、すぐに此奴を放り込むゆえ、此度の失態は見逃してもらえるか」

 目を丸くして固まった韓凌白の代わりに何仁力が素早く声をかけ、岳伯都を天幕に向けて突き飛ばそうとする。しかし岳伯都は全力で踏みとどまって抵抗し、押し返された何仁力の方がかえって体勢を崩しそうになった。韓凌白が咄嗟に加勢し、二対一で押し合ってようやく力が釣り合うというこの有り様に、簫九珠は呆れたようにため息をついた。

 そのとき、天幕から馬面の男が出てきた。男は脚が悪いのか、右脚を引きずって歩いている。

「誰が馬鹿騒ぎをしているのかと思ったら、韓道長と何大師ではないですか。一体何事です」

 不愛想と棘がむき出しの声音に、押し合っていた三人は一斉に振り返った。

欧陽丙おうようへい!」

 韓凌白と何仁力が同時に声を上げる。欧陽丙は片方の眉を吊り上げると、ぽかんとしている岳伯都に目を移した。

「すると噂は本当なのですね。かの虎王拳を道長たちが従えているというのは」

「そうだ。お前がどこまで覚えているかは知らぬが、これで教主の計画がようやく進展したのだぞ」

 韓凌白が不満たっぷりに言い放つ。

「欧陽丙、こちらへ参れ」

 何仁力は韓凌白には構わず、欧陽丙を招き寄せた。片耳を貸すよう手で示し、何やらささやいて頷くと、何仁力は欧陽丙を岳伯都の方に向かせて言った。

「岳伯都。この欧陽丙は我々天曜日月教の仲間で、長らくごう教主に付き従ってきた忠実なる教徒だ」

 欧陽丙はにこりともせずに拱手して一礼した――天曜日月教の教徒にしては、彼は岳伯都への関心がいやに薄い。しかし、岳伯都が疑問を投げかける前に、何仁力が再び口を開いた。

「全ての試合が終わるまで我々はお前と会うことが出来ぬ。何かあれば欧陽丙を頼るといい……健闘を祈る、岳伯都」

 何仁力は韓凌白に目配せすると、林信君に一言詫びて去っていった。



 残された岳伯都は欧陽丙を見た――辰煌台で韓凌白たち以外の教徒を見かける機会はたしかにあったが、彼の顔は見たことがない。岳伯都はそのことを尋ねようとしたが、欧陽丙は簫九珠についてさっさと天幕に戻ってしまった。

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