開幕、龍虎比武杯

 あくる日も衡山は快晴で、龍虎りゅうこ比武ひぶはいはまたとない天気の中開幕を迎えた。


 張正鵠が開幕を告げ、群侠が湧き立つ中、まず行われたのは五岳派のそれぞれの門派から選ばれた年少の弟子たちによる頂上決定戦だった。これは前座として毎回行われている取り組みで、龍虎比武杯の五人の創始者に敬意を表するとともに、集まった英雄豪傑に新たなる才能を披露するものだ――皆十五歳にも満たない少年だというのに、岳伯都よりもずっと闘志に満ちており、身のこなしも素早く力強い。誰もが互角の勝負を繰り広げ、最後に勝利を収めたのは西岳華山かざん派の少年剣客だった。岳伯都は群衆と一緒になってその少年に惜しみない拍手を送った――そして、「岳伯都」にもこういう日があったのだろうかとぼんやり考えた。

 幼い日の岳伯都も、誰か立派な師のもとで鍛錬を積み、龍虎比武杯のような大舞台で自身の腕を証明する日を夢見ていたのだろうか。実際に、彼は江湖で一番の栄誉を掴んだ。それが今や、自分のような「江湖ではやっていけない」男に肉体を使われていると知ったら、あの世の彼はどう思うだろうか――


「素晴らしい一番でしたね。彼らがいれば、今後の武林も安泰でしょう」

 ふと、すぐ隣から柔らかな声がした。驚いて左右を見回すと、牌坊までの山道で目が合ったあの白髪の公子がいつの間にか並んで立っていて、一緒になって観戦しているではないか。

「うわっ⁉」

 岳伯都は飛び上がり、いつもの癖で韓凌白たちの姿を探してから、彼らの誰も近くにいないことを思い出した。

 龍虎比武杯は出場者が多いため、予選は三日に分けて行われる。岳伯都は二日目の組だったが、韓凌白と何仁力は一日目の組に入っており、開幕式の時点から待機部屋にいて試合の順番を待っているのだった。おまけに胡廉と藍蝶蝶は観覧者用の席にしか立ち入れず、よって岳伯都はたった一人で競技場の隅にいたのである。

「お初にお目にかかりますね、岳伯都壮士。私は素懐忠そかいちゅう、中原共志会きょうしかいの領導です」

 素懐忠はそう言うと、合掌して軽く頭を下げた。その真っ白い手にかけているのは透き通る瑠璃を連ねた数珠だ――彼は見慣れない紋様の縁取りがついた真っ白い法衣をきっちり着込んでおり、にこやかな笑顔は夏の盛りに咲いた白蓮のように明るく純真だ。もし彼も僧侶なのだとしたら、何仁力とは大違いだと岳伯都は思った。少なくとも人を取って食うことは絶対にしないだろう。

 だが問題は、彼が自ら共志会の領導と名乗ったことだった。岳伯都はすぐさま衡山のふもとでやり合った一団を思い出した――あの死んだ男の仲間が、彼らの領導に事を報告したのだろうか? きっとそうに違いないと岳伯都は即座に思った。そうでなければ、彼らの長がわざわざ一対一で話をしに来るはずがない。

「えっと、その……あれは、あれはただの事故なんです……! 僕は誰も殺すつもりなんてなかったんです!」

 血相を変え、おろおろと告白した岳伯都に素懐忠は首をかしげた。

「何の話でしょう?」

 尋ねる素懐忠に、岳伯都は衡山のふもとで起こした事件を説明した。その間素懐忠は一切口を挟まず、岳伯都が震える声で謝ってからようやく口を開いた。

「事情は分かりました。私も最初に話を聞いたときから気になっていたのですが、どうやらこちらにもある程度非はあるようですね。他の方々とも話をした上で判断したいのですが、どなたかお会いできる方はおられますか?」

 それは岳伯都が今まで聞いた中で、間違いなく一番真摯な言葉だった。岳伯都は泣きつきたいのをぐっとこらえて、胡廉と藍蝶蝶が観覧席にいると伝えた。

「ありがとうございます。では、私はこれで」

 素懐忠そかいちゅうはもう一度合掌して会釈すると、そのまま踵を返そうとした。

「あっ、待って!」

 岳伯都は思わず彼を呼び留めた――奇しくもそのとき、天地を揺るがさんばかりの歓声がどっと巻き起こった。素懐忠は競技場の中心に目を向けて、「ああ!」と嬉しそうな声を上げる。そこでは昨日山道で素懐忠と一緒にいた黒髪に白衣の男がすっくと背筋を伸ばして立っており、一方の対戦相手は体に付いた土を払いながら立ち上がっているところだった。喧噪を縫って、衡山派副掌門の林信君が思い切り声を張り上げて「勝者、素文真!」と宣言するのが聞こえてくる。

「良かった! 父が初戦を制したようです……素文真そぶんしんの名は覚えておられますか、岳伯都壮士?」

 岳伯都は無言で頷いた。素文真はたしか韓凌白たちが言っていた、今の江湖で最強と名高い掌法の達人の一人だ。

「それより素懐忠先生。あなたは大会には出られるんですか?」

 素懐忠に行かれる前にと、岳伯都は急いで話題を変える。素懐忠は申し訳なさそうに眉根を下げると、

「私は父に従って観戦に来ただけなのです」

 と答えた。

「龍虎比武杯は中原武林で一番の盛会です。私自身は武で覇を唱えられる器ではありませんが、それでも江湖の動向を見極めるためには来て損はないかと思いまして。それに、あなたのように、思わぬ方との出会いがあるかもしれませんし」

 素懐忠はそう言うと軽く会釈して、今度こそ人混みの中に消えていった。



***



 その後も試合は続き、日没前に全ての取り組みが終了するころには皆が勝者か敗者のどちらかに分けられた。

 韓凌白と何仁力は二人とも勝利をおさめ、次の試合に進むこととなった。彼らと素文真そぶんしん以外では、山道で見かけた杖をついた女侠――二つ名を氷雪ひょうせつ飄渺ひょうびょう、名を雪月影せつげつえいという彼女は、盲目であるにもかかわらずたった一手で勝利をおさめて会場をどよめかせた――や、衡山のふもとでやり合った男が二人ほど勝ち残っている。


 一日の終わりにようやく韓凌白たちと合流した岳伯都は、韓凌白と何仁力の勝利を祝いながら割り当てられた宿舎に戻った。出場していた韓凌白と何仁力はもとより、藍蝶蝶と胡廉も試合の熱が抜けきらないまま、興奮気味に誰がどうだったかを話し続けている。

「だが、あまり喜んでもいられぬぞ」

 何仁力はそう言って盛り上がる二人を遮ると、岳伯都に向き直った。

「明日は其方の試合がある。我々の目的はむしろそちらだ」

 岳伯都は生唾を飲み込むとぎこちなく頷いた。いつ以来かというほど心臓が早鐘を打ち、いても立ってもいられない心地がする。

 何仁力はそんな岳伯都の肩を叩くと、

「今日はもう休め。明日に備えて英気を蓄えよ」

 と言い、残る三人を引き連れてどこかに行ってしまった。

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