群侠集結す

 どんよりと暗雲立ち込める胸の内とは裏腹に、からりとした晴空が岳伯都の頭上には広がっている。

 初めて人を殺したという事実が一晩中重くのしかかり、彼は一睡もできないまま衡山の入り口に立っていた。しかし韓凌白たちは岳伯都よりも、昨日やり合った面々がもう衡山に着いているかどうか、共志会きょうしかいから他に誰が来ているのかということばかり気にかけている。夜の間どこかに消えていて、朝になってから再び姿を見せた何仁力も、岳伯都の肩をぽんと叩いたきり言葉をかけてこない。とんでもない大罪を犯したというのに、彼らはそのことを何とも思っていないというのが岳伯都は未だ信じられずにいた。

「まだ昨日のことを気にしているのか? 岳伯都」

 韓凌白がようやく彼の方を向き、言葉をかけてくれた――しかしそこに心配の色は全くなく、岳伯都は何も答えることができない。

「でも、江湖なんてそんなもんなんだよ。特に天曜日月教にはごう教主に感化されたか、とんでもないことをしでかして逃げ込んだ奴しかいないからさ」

 藍蝶蝶はそう言うと、岳伯都の肩に腕を回してきた。思いのほか力のある腕にぐいと抱き寄せられ、岳伯都は少しよろめいた。

「ちなみにあたしは、天曜日月教てんようじつげつきょうに入る前に百人殺したよ。それで一族の土地を追放されたんだ。仁力兄は人喰い和尚だし、胡廉は後宮の偉い人を半殺しにして逃げてきた。ね、みんなこんなもんなんだよ。良い奴も悪い奴も関係ない。だから一人殺したぐらいでいつまでもメソメソしてたらやっていけない」

「……でも、どうして平気でいられるんですか? 後悔とか、罪悪感とかはないんですか?」

 岳伯都はやっとのことで口を開いた。しかし四人はかえって不思議そうに顔を見合わせるばかりだ。

「さあ。少なくとも私は報復するに足る仕打ちを受けたのでそうしただけなんですが」

 答えたのは胡廉だった。顔色こそ優れないものの、後ろめたさや罪悪感を抱いている様子は一切なく、どこまでもあっけらかんとしている。

「一つだけ言っておくと、龍虎比武杯では出場者に危害を加えることは禁じられている。だから衡山を下りるまではお前が昨日のことで報復を受けたり、命を狙われたりすることはない」

 慰めのつもりなのか、何仁力が淡々と言う。岳伯都は「それでも……」と言い返そうとしたが、韓凌白が手で制して彼を黙らせてしまった――ちょうどそのとき、立派な身なりの男が一人、石段を下りて向かってくるのが見えたのだ。


 黒い長髪を結って銀の冠でまとめ、深緑の落ち着いた色味の長袍を身につけた、真面目そうな若い男だった。男は五人を素早く見回し、

「ここから先は衡山派の領域だ。我が派に何用だ?」

 と張りのある声で言った。

「我々は天曜日月教の者だ。龍虎比武杯に出るために辰煌台しんこうだいより馳せ参じた」

 韓凌白が進み出て、袖から例の巻物を取り出す。天曜日月教と聞いても男が表情を変えることはなく、彼はむしろ岳伯都に注意を向けているように見えた――視線が合った一瞬の間に、岳伯都は共志会の男たちが彼に気づいたときに見せたのと同じ驚きをこの若者の目の中に見たのだ。韓凌白の巻物を確かめる間も、どこか自身に意識を向けられているような気がしてならなかった。

「……成程。承知いたしました。出場を希望されるのは韓殿だけですか?」

 巻物をひととおり確かめたからか、男の語気が緩くなった。韓凌白は返された巻物を受け取ると、振り返って何仁力と岳伯都を指し、言った。

「いや。こちらの何仁力兄台と、それから岳伯都英雄も此度の大会に出させてもらう」

 それを聞くと、男はついに訝しげに眉を吊り上げた。

「異論があるか?」

 韓凌白が平然と問う。男は「いえ」と答えると、

「ただ少し驚いたもので。私のような若輩者が、まさか岳伯都英雄を我が衡山にお通しする日が来ようとは思ってもみませんでした」

 と言って、そこで初めて人の良い笑顔を見せた。

 男は袖を払って拱手すると、一礼して名乗った。

「私は衡山派の副掌門、林信君りんしんくんと申します。山頂までは私が案内いたします、どうぞこちらへ」



***



 舗装され、あるいは踏み固められただけの山道を登っていくと、次第に前を行く人影が増えてきた。皆緑色の服を着た青少年に導かれ、道の先に見える白い石造りの牌坊はいぼうに向かって歩いていく――牌坊には「南岳衡山派」の五字が彫られており、陽の光を受けて見事な陰影を作り上げていた。牌坊の脇には、一際深い緑の生地に金の刺繍が施された長袍を着た壮年の男が立っていて、来る者全員と言葉を交わしている。その脇には少年が二人立っていて、顔も上げずに手にした木簡に何やらせわしなく書き込んでいる。来客が決まってそこで立ち止まるため、牌坊の手前にはちょっとした列ができていた。

「あれが掌門しょうもん張正鵠ちょうせいこくです」

 林信君が牌坊の男を指さして言った。

「そういえば、林殿はかなりお若いのだな。副掌門と言っておられたが、張掌門の弟子の代のように見受けられる」

 韓凌白が思い出したように言った。

「ええ。張掌門は私の師伯しはくに当たります」

 林信君は気にする様子もなく、平然と答える。

「元々は私の師が副掌門を務めていたのですが、昨年病で他界してしまい、高弟の私が跡を継ぐことになったのです。お二人とも先代の掌門の徒弟だったのですが、師爺しやには他に弟子がおりませんでしたので」

 林信君の言葉に、韓凌白は成程と頷く。しかし岳伯都はさっぱり分からず、隣を歩く胡廉にこっそり尋ねた。

「えっと、つまり林さんは……どういう人?」

「先代の掌門の孫弟子ですよ」

 胡廉も声をひそめて答えた。

「先代の掌門には張正鵠ともう一人弟子がいて、そのもう一人が昨年亡くなるまで副掌門をしていたんです。林信君はその人の一番目の弟子で、師匠の後釜として副掌門になった。あと、その人よりも張正鵠の方が先に弟子入りしたか、年上なんでしょうね。だから林信君りんしんくんにとって張正鵠は伯父弟子に当たるわけです。分かりました?」

 岳伯都はへえと呟いて礼を言った。

「こういう話はしょっちゅう出てきますから、ちゃんと覚えておいてくださいよ? 拝師はいしは武林の基盤なんですから、人殺し云々よりもこれが分かっていない方がまずいです」

 胡廉に釘を刺され、岳伯都は「分かった」と頷いた。天曜日月教は教主と幹部、それから一般の教徒で成り立っているが、衡山派などの門派はもっと複雑な関係の上に成り立っているのだ。


 韓凌白と林信君はなおも世間話を続け、そうするうちに六人もまた列に組み込まれた。列の前後にいる者も皆それぞれに話をしており、あの人がどうした、この人がどうしたという噂話で山道は満ちている。岳伯都は少しだけ振り返って、後方にいる人々を見回してみた――書生、杖をついた女、刀剣を背負った男たち、白髪に白衣の若者と無精ひげの壮年の男、それに若々しい見た目の男の三人組。その後ろからも衡山派の弟子の案内で、様々な身なりの男女が三々五々登ってくる。ふと、白髪の若者が顔を上げて岳伯都を見た。韓凌白に負けるとも劣らない、しかし彼よりも純朴で、あどけない娘のような美しいおもてが岳伯都の視界に飛び込んでくる。

 しかし、彼が縫い留められたのはその双眸だった。純朴な顔立ちに反して、その琥珀色の目だけは鋭く、こちらの後ろ暗い部分を見抜いて咎めるような険しさを持っている。岳伯都は慌てて目線を逸らしたが、今度は数人を隔てたところにいる書生と目が合った。書生は彼を見るなり信じられないとばかりに目を見開き、彼の名を呼ぼうと口を開きかけた――


「掌門、こちら、天曜日月教の韓凌白かんりょうはく殿、何仁力かじんりき殿、それに岳伯都がくはくと英雄です」

 林信君の声で岳伯都は現実に引き戻された。五人はいつの間にか列の先頭に立っており、張正鵠が道の脇のちょっとした空間で拱手している。

 岳伯都たちも揃って拱手し、彼に礼を返した。

「張掌門。此度はお招きいただき誠に光栄に存じます」

 韓凌白が言った。張正鵠はにこやかに頷くと、

「何を。韓道長と何大師が揃って風采を添えてくださること、主催者としてこれに勝る光栄はありますまい。それに此度は岳伯都英雄までおられる……これは今まで以上に白熱した大会になりそうですな」

 と言って灰色のあごひげを撫でつけた。

「ところで、残りのお二人は、観覧のみということでよろしいですかな」

「そうだよ。冷やかしにも人数がいるだろうと思ってね」

 張正鵠ちょうせいこくの問いに藍蝶蝶がおどけて答える。張正鵠は気を悪くするかと思いきや、軽く笑って、またあごひげを撫でた。

「結構、結構。大いに楽しんでいってくだされ」

 その傍らでは、林信君が木簡を持った少年たちに全員の名前を教えて書きとらせている。少年たちの手が止まって彼が道に戻り、掌門に頷いたところで、五人はいよいよ牌坊をくぐった。

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