人殺しは江湖人の始まり
胡廉がかつての覇王さながらに敵の只中で暴れている傍らで、岳伯都はおろおろとその場に突っ立っていた——理屈でいえば助けに割って入るべきだが、胡廉は「お前のブツも切り落としてやる」「犬畜生」「クズ野郎」「ロバにでもなっちまえ」と散々に声を荒げて罵っているし、それに怒鳴り返す男たちの声も聞いているだけで腰が引ける。おまけに全員が見るからに殺傷力抜群の刃物を振り回しているのだから恐ろしいことこの上ない。
「一体何の騒ぎだ?」
胡廉の出てきた茂みがもう一度鳴り、今度は韓凌白と藍蝶蝶が姿を現した。岳伯都は驚きのあまり叫んで飛び上がったが、すぐにの彼らに飛びついてこれまでの経緯を大急ぎで話して聞かせる。
「……成程。つまり最初に言いがかりをつけてきたのは奴らだが、始めたのは胡廉だと」
韓凌白は美しい柳眉を寄せてため息をつくと、未だ罵り合いながら刃物を振り回している一団に目を向けた。獅子の如く荒れ狂っている胡廉だったが五対一では多勢に無勢、次第に劣勢に追いやられている。
「しかしまあ、あんなに怒ってる胡廉は久しぶりだねえ。新時代の梁山泊だかなんだか偉そうに言ってるわりにはなってない奴しかいないんだろうね、共志会には」
藍蝶蝶はそう言うと、韓凌白に目配せした。戦う六人は韓凌白らの登場に未だ気付いていないらしく、しかし胡廉はどんどん窮地に陥っている。韓凌白は右腕に抱いた払子を投げ飛ばすと、その手に剣指——人差し指と中指を揃えて立て、残る指を握る基本の手の形だ——を作って目の前に掲げた。
その途端、急に空が暗くなり、雷鳴が低くとどろき始めた。何事かとあたりを見回したときには雷が三人の眼前に落ち、煙の中から一本の鉄棒が現れる。持ち手と複数の節から成る、剣にも似たそれは
韓凌白は地面に直立した霹靂鞭を取り上げると、道袍を翻して戦いの中に突っ込んでいった。金属のぶつかる音に混じって小さな雷のような音が絶え間なく聞こえ、火花に混じって青白い閃光が何度も閃く。少しは持ち直したように見えた胡廉だったが、ほどなくしてあっと声を上げて後ずさった。片手で肩口をぐっと押さえてはいるが、溢れる血がどんどん衣を紅に染めている。
「胡廉!」
藍蝶蝶が胡廉に駆け寄った。その声に韓凌白もはっとしたように振り返る。しかし、隙ありとばかりに降ってきた刃に阻まれて彼は駆けつけることができない。岳伯都は藍蝶蝶を追って胡廉の傍らに膝をついた。藍蝶蝶は胡廉の傷を確かめたのち、剣指を作って素早く体の数か所を突いた。胡廉の苦悶の表情が少し和らいだ——が、その顔は変わらず蒼白なままだ。
「岳伯都、韓凌白! あたしらは先に退くよ!」
藍蝶蝶が大声で呼びかける。すると、
「逃げるな、この邪教徒が!」
共志会の一人が彼らに狙いを定め、真正面から襲いかかってきた。彼が胡廉を刺したのか、長剣の先が血で赤く染まっている。藍蝶蝶は悪態をつきながら胡廉を助け起こし、一刻も早く逃げようとした。韓凌白は残る四人の相手で手一杯だ――岳伯都は藍蝶蝶と共志会の男を交互に見ると、雄叫びとともに迫りくる男に突っ込んだ。
男の顔がこわばり、剣の切っ先がぶれる。
岳伯都はその隙を突いて男の右手首を下から打った。男の手から長剣が飛び、その喉から小さく悲鳴が漏れる。岳伯都は反対の手で男の肩を打つと、その手をぐっと引くと同時にもう片方の手に拳を作って前に突き出した。ドン、と衝撃が走り、二人の間に距離が開く。岳伯都は即座に地面を蹴って飛び出すと両手を空中で翻し、片方の掌に内功を込めて男の心窩に思い切り叩き込んだ。
男は声も上げずに吹っ飛び、仰向けに落ちて動かなくなった。岳伯都は片手を前に出し、もう片方の手を握って肩の後ろに引いた体勢で、えもいわれぬ余韻に浸っていた――転生して初めて、彼は自らの手で相手を倒したのである。
そして今や、韓凌白も、韓凌白を囲んでいた男たちも、藍蝶蝶と彼女に支えられた胡廉も、皆が動きを止めて岳伯都に見入っていた。
「……こ、
共志会の一人が震える声で呟く。彼らは急に戦意を失ったばかりか、岳伯都たちからじりじりと距離を取り始めた。
「逃げるぞ!」
誰かが叫んだのを合図に、共志会の面々は蜘蛛の子を散らしたようにわっと走り出し、すぐに木立の中に姿を消した。
その途端、糸が切れたように胡廉が倒れ込んだ。藍蝶蝶が慌てて支え、改めて傷口の様子を確かめる。韓凌白は未だ伸びている男の手首の内側に触れたが、すぐに手を離して
「死んでいるな」
と呟いた。
その一言で、岳伯都は脳天を思い切り殴られたような心地がした。周囲の音が急激に遠ざかり、早鐘のように打つ自分の鼓動だけがやけにうるさく聞こえてくる。
「死んで……って、僕が、その人を、こ……ころした……?」
「そういうことになる。それよりも、岳伯都、虎掌山河滅が使えるのなら、なぜあのときに使ってみせなかったのだ?」
韓凌白はあっさり肯定するとさっさと話題を変えた。しかし岳伯都は、彼の肯定によってかえって頭から血の気が引いていくのを感じていた。
「虎掌山河滅……僕、今、虎掌山河滅でこの人を殺したんですか?」
「そうだ。だがあのときお前が使ったのは『
「そんな、僕……僕が人を殺したなんて……」
「岳伯都!」
今にも泣きだしそうな声でおろおろと呟く岳伯都を韓凌白は遮った。
「よく聞け、岳伯都。この江湖に人殺しを厭う者の居場所はない。今まで江湖に生きた誰もが別の誰かを殺し、また別の誰かに殺されてきた。私も、藍蝶蝶も、何仁力も、胡廉も、皆誰かを殺したから今ここにいるのだ。岳伯都とて例外ではないぞ。奴は最期こそ自らの手で命を絶ったが、それ以前に奴の手の内で生命を砕かれた者は少なくない。分かったか? これが江湖という世界なのだ。泣こうが喚こうが笑おうが、人殺しに囲まれて人殺しをして生きているという真実は覆らぬぞ」
冷酷なまでの淡白さで韓凌白は語る。すなわちそれは、この程度で心が折れているようではこの先江湖では生きていけないぞという警告だった。
龍虎比武杯に出て好成績を持ち帰るということは、江湖で一目置かれる存在になるということだ。そしてひとたび江湖で注目を集めると殺し殺されの荒波は絶対に避けられない。出るなら覚悟を決めて泣き言を引っ込めろ——ところが、韓凌白のこの忠告で岳伯都は限界を迎えてしまった。目の前がすっと暗くなり、気が付いたときにはすっかり夜が更けていた。
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