どんな時でも気を抜くなかれ
衡山までの道として
そんな最後の野宿の夕暮れ、岳伯都は胡廉に言われて薪を拾いに森の中をうろついていた。
都市部で生まれ育った「白斗」にとって、腕いっぱいに粗朶を集めるのは幼少期に農村の祖父母の家に遊びに行ったとき以来のことだ。童心に返ってついつい森の奥へと進んでいた岳伯都だったが、ふと何人かの話す声が聞こえて足を止めた。
声は前方の薮の向こうから聞こえてくる。他にも野宿している人がいたのか、と呑気に考えた岳伯都は、次の瞬間、自分が全く知らない場所まで来ていることにはたと気がついた。あまり遠くまで行かないでくださいね、と念押しする胡廉の声が今更のように頭の中にこだまする——突然湧いてきた不安に慌てて踵を返した岳伯都は、足元の枝を思いきり踏みつけてしまった。パキッと小気味良い音を立てて枝が折れ、薮の向こうから「誰だ!」と叫ぶ声が聞こえてくる。岳伯都はその場で飛び上がり、一目散に駆け出した。木に印を付けながら歩いていたから、迷うことはないはずだ——そう思っていた岳伯都だったが、走れど走れどその印を付けた木が見つからない。さらには追い討ちをかけるように、先ほどの声が「止まれ!」と大声で呼ばわるのが聞こえてきた。
「助けて! 凌白さん! 胡廉! 誰か!」
岳伯都はたまらず叫んだ。するとその直後、まるで彼の窮地を察したかのように脇の茂みから胡廉が飛び出してきたではないか。
「どこほっつき歩いてたんですか、岳大侠! 遠くまで行かないでって私言いましたよね⁉︎」
「胡廉助けて!」
胡廉は見るからに怒り心頭だ——しかし岳伯都は、甲高い声でまくし立てる胡廉をこれ幸いと引っ掴んでその背後に回り込んだ。体格が体格なだけにその力は強く、胡廉は気がつくと岳伯都を追ってきた一団の矢面に立たされていた。
「ちょっと、一体どういう……」
胡廉は戸惑いながらも、追手をじっと観察した。五人ほどで皆男、各々が抜き身の刀剣を携えている。胡廉は眉を少しひそめたが、すぐさま不穏な表情を消し去って追いついた面々に困り顔を見せた。
「皆さん、どうされたんですか?」
「どうしたもこうしたも、お前の後ろにいるその男が俺たちの話を立ち聞きしてやがったんだよ!」
先頭の男がいきり立つ。胡廉はそうですか、とだけ答え、
「そんなに重大なお話をされていたのですか」
と頷きながら付け加えた。
この態度に、男たちは少なからず面食らったらしい。彼らはぽかんと口を開き、それから我に返ったように反論し始めた。
「いや、俺たちの話じゃなくて、こいつが立ち聞きしてたってのが問題なんだ」
「そうだそうだ! 龍虎比武杯も近いこの時期にコソコソ嗅ぎ回るなんて怪しいに決まってる!」
「はあ、龍虎比武杯ですか。もしかして皆さん、お揃いで参加されるんですか?」
胡廉が尋ねると、男たちはさらに色めきだって語気を強くする。
「その通り。我らは中原
「でも、だからって武器まで持って追い回すのは、少しやり過ぎではないですか? ただ薪を集めていただけの、無辜の方かもしれませんよ」
「無辜だあ? なんで無辜の民がこんな山奥で薪拾いなんてしてるんだよ?」
小馬鹿にしたように首をかしげた男に、胡廉は「さあ」と自らも首をすくめてみせる。岳伯都は胡廉の後ろで体を縮こまらせたまま、そろそろと肩の上から顔を出した。男たちは胡廉と言い合うのに必死で、どうやら岳伯都に対する怒りは忘れてしまったらしい——そう思った瞬間、一番後ろに控えていた男と岳伯都の視線がかち合った。彼は一瞬怪訝そうに眉をひそめたものの、すぐにぱっと両目を丸くして
「岳伯都⁉︎」
と大声で言った。
岳伯都は慌てて頭を引っ込めた。しかし他の男たちの注意はすでに岳伯都に戻っており、口々に騒ぎ立て始めた。
「岳伯都だと⁉︎ なぜここに彼が?」
「だが間違いない! さっき少しだけ顔が見えたが、あれは間違いなく虎王拳の岳伯都だ!」
「そういえばこいつも見覚えがあるぞ。こいつ、あの
「……そうだ! どこかで見た顔だと思ったら、
これにはさすがに胡廉も舌打ちをした。岳伯都を庇うように胡廉は片足を引き、騒ぎ立てる男たちを睨みつける。一方の岳伯都はついに現実逃避を始め、あの可愛らしい容貌の教主にそんな大層な異名があったのかとぼんやり考え始めていた——そのとき。
「岳英雄! どうしてこいつの後ろに隠れて何も言わないんですか! あなたもこの短小に何とか言ってやってください!」
「えっ僕⁉︎」
突然名指しで呼ばれた岳伯都はびくりと飛び上がり、胡廉の後ろから完全に体を出してしまった——のだが。
「馬鹿、あいつにモノの長短があるかよ。そもそもが付いてないんだからな!」
別の男が嘲笑を浮かべて仲間の肩を軽く叩く。それに同調する男たちを見るや、胡廉の怒りが爆発した。
「よくも言ったな、この腐れ外道ども‼︎」
女子の悲鳴よりもうるさい、耳に突き刺さるような怒号があたりの木々を震わせる。胡廉はそのまま先の男に飛びかかり、どこからか取り出した短刀で思いきり斬りつけた。
ギャア、と男が悲鳴を上げる。胡廉はその痛々しい声は一切意に介さずに猛攻を仕掛け、その周囲を残る共志会の面々が取り囲む。胡廉はあっという間に包囲され、男たちの輪の中に隠れて見えなくなってしまった。
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