南岳衡山いざ参らん(二)
岳伯都は韓凌白たちを追って鍛錬場として使われている広場に駆け込むと、そこに集う面々に首をかしげた。どういうわけか、いつもは何仁力と韓凌白しかいない広場に藍蝶蝶と胡廉が一緒にいて、見慣れない娘を交えて五人で話し込んでいる。
「やっと来たか」
岳伯都に気付いた韓凌白が声を上げた。岳伯都は遅れたことを謝ると、彼らの中心にいる娘に目をやった。
「あの、この人は……」
娘は藍蝶蝶ほど長身ではなく、背丈も体格も胡廉と同じくらいだ。韓凌白は娘を手で示し、
「ああ。この方は――」
と言いかけた。
ところが、娘は彼を遮って自ら名乗った。
「私は教主の
「教主⁉ あなたが?」
岳伯都は素っ頓狂な声を上げ、あたふたとその場に跪いた。そんな岳伯都と堂々たる態度の娘を尻目に、四人はそっと顔を見合わせる。
「失礼ですが、一体何をお考えで――」
すぐ隣に立っていた胡廉が娘に耳打ちする。娘は
「父上のご意向よ」
とだけ答えると、胡廉に下がるよう目配せして岳伯都に向き直った。
「龍虎比武杯までいよいよだけど、修行の進展はどうなっているのかと思って。目覚めた直後は
随分と偉そうな口ぶりだと岳伯都は思った。しかし岳伯都が顔を上げて何か言う前に、今度は韓凌白が素早く口を開いた。
「問題ありません。魂魄の状態も安定していますし、武功の方もかなり戻ってまいりました」
「本当?」
敖東海は愉しげに片眉を持ち上げて、くるりと大きい目で岳伯都を見下ろす。
「は、はい。何仁力と韓凌白の両兄のおかげで、なんとか……形にはなってまいりました……」
岳伯都は皆の使いそうな口調で答えたものの、どうしても緊張でしどろもどろになってしまう。当たり前だ、今まで話にしか聞いていなかった「教主」こと敖東海が目の前にいるのだから! 「白斗」だった頃から数えても、彼女ほどの地位の人間に会うのは初めてのことだった。
そんな彼の内心を知ってか知らずか、敖東海は韓凌白たちに小声で問いかけた。
「あいつ、本当に私が誰か分かっているのか?」
「まだ記憶にあやふやな部分が残っているのですよ。なにせ十年も眠っていたのですし、元々が手違いの起こりやすい術ですので、凌白兄ほどの道士であっても多少の困難は付きまといます」
胡廉が即座に答え、顔に笑みを貼りつけたまま韓凌白に目配せする。
「はい。私めの不覚にございます」
韓凌白は胡廉に合わせて頭を下げ、その場に跪いた。何仁力と藍蝶蝶も、黙ってこそいるものの二人して眉をひそめて成り行きを見守っている――この場で、彼女に岳伯都の中身が別人であると知られることが一番まずい。四人の心情は完全に一致しており、話がまずい方向に転がりそうならすぐにでも割って入れるよう全員が気を張っていたのだ。
幸いにも、
「なかなか呼び出せぬ魂をいつまでも呼び続けることに関して、たしかに韓道長は懸念を示していたわね。よろしい、今回は不問としましょう」
韓凌白たちの間に安堵の空気が広がる。しかし敖東海はすぐに「でも」と言い、岳伯都に再び向き直った。
「武功が戻ったというからには、あの奥義、『虎掌山河滅』も使えるのでしょう? この一か月間の修行の成果として、今ここで私に見せてくれるかしら」
岳伯都は声を出すのも忘れて敖東海を見上げた。彼女の後ろでは四人が一様に眉をひそめている。
「できるだろう?」
敖東海が岳伯都の両目を覗き込んだ。岳伯都は我に返ると、
「はい」
と答えて立ち上がり、手のひらの汗をこっそり袴で拭いた。
「ええと……じゃあ、いきます……」
おどおどと辺りを見回した末、岳伯都は遠くの岩に狙いを決めた。深呼吸をして腰を深く落とし、構えた両手を体側に引き寄せ、大きく回して胸の前で合わせる。内功の流れに集中し、手の先に集まりつつある力が一気に凝結する瞬間を掴み取る。
――今だ! 岳伯都は大きく踏み込むと同時に両の掌を前に突き出した。その掌から内功が一息に放たれ、的となった岩が粉々に砕け散る。爆発音が響き、岩のあった場所に土煙とも粒状になった岩ともつかない粉塵が立ち込める。
——できた! 岳伯都はそう思ってほっと胸を撫で下ろした。しかし、韓凌白たちは敖東海にも聞こえない小声で
「違う」
「違いますね」
「違うな」
「違うねえ」
と口々に呟き、互いの顔を盗み見た。
「虎掌山河滅じゃなくて、何でしたっけ? あの、
「『
胡廉の問いに何仁力が答える。技を取り違えるなど、彼らにとっては終わりの合図もいいところだ——しかしそのとき、
「素晴らしい!」
敖東海の絶賛する声が彼らの耳を打った。
「さすが岳伯都! これなら龍虎比武杯も期待できそうね!」
「ありがとうございます、教主!」
岳伯都は大声で礼をいうとぺこりと頭を下げた。その様子に四人は目を剥き、訝しげな視線を交わしたが、敖東海も岳伯都も彼らのことなど目に留まらないようだ。
「韓凌白よ」
ニコニコと満足げに笑いながら、敖東海は韓凌白を振り返る。
「出立の際の挨拶は不要だ。準備ができ次第下山しなさい」
「かしこまりました、教主」
韓凌白が答え、他の三人が頭を下げる中、敖東海はなんともご機嫌な足取りで去っていった。
そして翌朝。朝靄の立ち込める中、岳伯都たちは衡山に向けて出発した。しかし、緊張と興奮で目を輝かせる岳伯都に対し、他の四人はどこか不安の残る面持ちで山道を下っていた。
四人は岳伯都に内緒で夜遅くまで話し合ったものの、昼間の一件に関してはなかなか答えが出なかった。突然顔を出してきた娘、技を間違えた岳伯都、そして二人ともが技が間違っていると気付いていない——ひとまずは乗り切ったものの、この一連の出来事は彼らを不安にさせるに十分たるものだった。これが後々、転生した岳伯都を龍虎比武杯で勝たせるという目標を阻害する禍根となるのではないか?
「……ともかく、今は何も追及されてないってことを考えようじゃないか。もし本当に気付かれてないのなら、教主の目もごまかせてるのかもしれない」
藍蝶蝶が最後に言った一言が、彼らにできる最上の策だった。そして毒を食らわば皿までとばかりに、しらばっくれることを決めたのである。
龍虎比武杯まで、残すところあと五日。ここで岳伯都が結果を出せるかどうかが皆にとっての正念場であった。
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