第二章 開幕、龍虎比武杯

南岳衡山いざ参らん(一)

 龍虎比武杯りゅうこひぶはい、それは十二年に一度開かれる中原武林の盛会だ。数ある門派の中でも「五岳派ごがくは」と称される五つの名門が持ち回りで開催するこの武術大会は、何百年もの昔に生きた五人の若者が発起人とされている——彼らは日と場所を指定して集まり、門派の枠を超えて互いに実力を競っていた。時が経ち、それぞれが門派の頭である掌門しょうもんになると、五人は仲間内の腕試しだったそれを五岳派全体の催しに進化させ、十二年に一回、それぞれが持ち回りで開催するという掟を定めたのだ。この話は江湖に広く伝わっていき、いつしか五岳派には所属していないが自らの腕を試したいという者が飛び入りで参加するようになっていく。こうして龍虎比武杯は全武林を挙げて行われる盛会となった。参加する側にしてもただ腕試しをするだけの場ではなくなり、とりわけ無名の若者にとっては江湖で名を上げるための登龍門という面が強くなっていく。これらの事情も踏まえて規則が確立されたのが百年ほど前のことで、今回の大会もこのときの規則を引き継いでいるとのことだった。



「……一つ、試合はあくまでも腕を競うものとし、過度の傷害、また対戦相手の殺害は固く禁ず。一つ、観覧席では一切の武功の使用を禁ず。一つ、如何なる身分であっても、競技場と練武場以外での武功の使用は認められない。また練武場への立ち入りは火急の場合を除き、出場権を有する者のみに限定される。一つ、出場を望む者が如何なる身分、所属、立場であっても、主催者はこれを認め、試合に参加させる権利を有する。これは如何なる圧力によっても覆らないものである。違反があった場合にのみ、主催者は出場の権利を剥奪できるものとする。一つ、出場者に関する一切の決定権は主催者が有するものとする……」

 岳伯都は眉を寄せ、一行一行を指でなぞりながら巻物を読み上げていた。中には龍虎比武杯の歴史、規則、今回の開催場所となる南岳衡山への通行を認める文言が書かれている。これは今大会の主催者である衡山派こうざんはの掌門、張正鵠ちょうせいこくが手ずからしたため、各地の仲間に向けて送り出したものだった。過去の大会に出場したことがある者には開催が近付いてくると案内状が届く、というのが龍虎比武杯の慣例なのだ――天曜日月教でこの案内状を受け取ったのは道士の韓凌白、そして武術師範である何仁力の二人だ。岳伯都が尋ねると、二人も今回の龍虎比武杯に出るのだという。

「江湖や武林での評価がどれだけ悪い者でも、出たいと言えば主催者側が拒むことはできぬ。龍虎比武杯は武林で最も中立な場だからな」

 韓凌白はそう言って岳伯都に巻物を返すよう促した。

「だが、誰でも出られる大会だからこそ、江湖の裏も表も知り尽くした手合いが集結する。龍虎比武杯とはそういう場だ」

 何仁力が相変わらずの仏頂面で言う。岳伯都は「はあ」と頷いたが、ふとあることを思い出して口にした。

「でも、どうして僕……岳伯都には案内状が届いていないんですか? たしか前回大会の優勝者だって」

 岳伯都の問いに、韓凌白と何仁力は顔を見合わせた。

「……実は、岳伯都は表向きには行方知れずということになっているのだ」

 珍しく、韓凌白が言いにくそうに告げる。

「十年前、我々天曜日月教てんようじつげつきょうは中原武林の正道門派に攻撃をしかけた。岳伯都はそのときの戦乱の中で我らの襲撃を受け、そのまま消息を絶ったということになっているのだ」

「……嘘でしょ」

 岳伯都は思わず呟いた。

「嘘ではない。実際に教主が自ら出向いて奴を追い詰め、武功を封じて辰煌台に連れ帰ったのだぞ。しかし奴は教主を散々に罵った挙句、皆の見ている中で封印を解いて自ら経脈を破壊し、命を絶った」

「それって、僕が皆さんと一緒にいると世間的にはまずいってことですよね⁉」

 岳伯都はたまらず叫んだ。しかし韓凌白は強気にも「大丈夫だ」と豪語する。

「お前の安全は我々が保障する。何のために幹部四人が揃って辰煌台を留守にすると思っているのだ? それに龍虎比武杯の規則は何を以てしても変えられぬ上に、主催者には中立を保つために全ての出場者の安全を守る義務がある。つまりお前は我々四人と龍虎比武杯の規則、そして衡山派掌門の張正鵠という三重の庇護を得ていることになるのだ。何も案ずることはない」

「そんなあ……」

 岳伯都は絶句した。元いた世界では確実に認められない論理を韓凌白はやすやすと言ってのけたのだ。おまけに、

「否、案ずるべきは他にある。岳伯都、『虎掌山河滅こしょうさんがめつ』の招式は覚えられたのか?」

 と何仁力がたたみかけるように言ってきた。岳伯都はぎくりと身をこわばらせ、無言で首を横に振る。

「ならば特訓だ。明日には辰煌台を下りて衡山に向かうゆえ、これが最後の機会だぞ」

 何仁力は顔色ひとつ変えずにそう告げると、韓凌白とともにさっさと歩き出してしまった。

 残された岳伯都はため息をつき、懐から一冊の書物を取り出した――潰れがちな字で『虎掌山河滅』と表題のついたこの本は、岳伯都の一世一代の大技を使う方法が記された経典だった。生前の岳伯都自身によって書かれたものだと何仁力は言っていたが、今の岳伯都はそれを見て絶句せざるを得なかった。

 岳伯都はぱらぱらと頁をめくり、先ほどの巻物を思い返してもう一度ため息をついた。さすが武林で一番の大会を主催するだけあって、張正鵠という男の字は端正かつ雄大だった。対する岳伯都は、もしかしなくても書道が苦手なのではないか――その証拠に、「虎掌山河滅」の経典の字はうねったり歪んだりずれたり潰れたり、やりたい放題に記されている。ただでさえ見慣れない字ばかりだというのにこの始末、一体どうしたものかと岳伯都はすっかり考えあぐねていた。

「何をしている、岳伯都!」

 ふと、韓凌白が大声で呼ばわっているのが聞こえた。岳伯都は悩みを振り払うようにかぶりを振ると、

「すぐ行きます!」

 と大声で返して本を懐に戻した。

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