幕間:龍虎名冊

枯苗毒手・藍蝶蝶

 枯苗毒手こびょうどくしゅ藍蝶蝶らんちょうちょう――これは天曜日月教の幹部が一、藍蝶蝶の正式な通り名である。ミャオ族の出でありながら一族の土地を追放された彼女が天曜日月教に身を落ち着けたのはもう二十年も前、現皇帝の父たる洪武帝が未だ存命であった頃のことだ。着の身着のままで追い立てられ、ごろつきまがいの生活を送っていた彼女と韓凌白が出会ったのはある雨上がりの夜のこと——彼女が手ずから育て上げ、毒をたっぷり蓄えさせた毒蛇に韓凌白が噛まれたことが全ての始まりだった。



「ははっ、えらい美男がかかったもんだねえ」

 冷たいぬかるみに顔面蒼白で倒れ伏し、ぎこちなく身悶えする韓凌白を見下ろして藍蝶蝶は笑った。そのまま足で体を転がし、思い切り腹を踏みつければ韓凌白の口から苦しげな呻き声が漏れる。

「ねえ、帥哥美男子さん、あたしに何か恵んでくれるかい? そうすりゃ命は助けてやるよ」

 ニヤニヤと笑う藍蝶蝶を韓凌白はきっと睨みつけた。藍蝶蝶はそれすらも笑い飛ばすと、

「雨風をしのげる場所と、小腹を満たせるものがあれば文句は言わない。良いって言ってくれたら解毒薬をあげるよ」

 と言って韓凌白に顔を寄せた。

 刹那、韓凌白が両脚を振って藍蝶蝶の尻を蹴り上げた。

「ちょっ、何するのさ!」

 藍蝶蝶が悲鳴とともに飛びのくと韓凌白はぱっと跳ね起き、一瞬のうちに藍蝶蝶を地面にねじ伏せた。ガッ、と喉に異物が詰まったような音を立てて咳き込むと、韓凌白は全力で押さえつけた藍蝶蝶の背中に真っ黒な悪血をまき散らす。

「やだ!」

 これには藍蝶蝶も悲鳴を上げた。韓凌白が吐いた血には蛇の毒がふんだんに含まれており、彼女は自らの毒をかえって自らに浴びせられてしまったのだ。韓凌白はきつく藍蝶蝶を押さえたまま、勝ち誇ったように笑い声を上げた。

「この玄洞子げんどうしを見くびったな、女」

 未だ震えてはいるものの、つい先ほどまで毒にやられていたとは思えないほど確かな声音で韓凌白は言った。藍蝶蝶は思い切り舌打ちしたが、体をがっちり固められていては逃げられない。

「……やられたよ。あんたの勝ちだ。負けを認めるから放してくれるかい」

 藍蝶蝶は苦々しげに言った。しかし降ってきたのは韓凌白のせせら笑う声だ。

「すれ違いざまに毒をけしかけ、命と引き換えに寝床と食事を要求するような女をそう簡単に手放すと思うか?」

 すると、不意に藍蝶蝶の背中にかけられていた圧力が消えた。飛び起きた彼女の目の前には泥まみれになってもなお美しさを失わない韓凌白がいる。韓凌白は藍蝶蝶のぼろぼろの全身を一瞥すると「苗族の女か」と呟いた。

「すると先ほどの毒は蠱毒こどくだな?」

「よく分かったね。そうだよ、あたしは蠱毒使いだ。それも苗族で一番凶悪な手合いだよ」

「何故そう言い切れる?」

「同族殺しの罪で追放されたからさ。普通の蠱毒よりももっと強いやつを作ろうとしてたんだけど、実験中のを手違いで撒いちまってね。それで仲間が百人死んだ」

 悪びれるふうもなく、藍蝶蝶はさらりと告白してみせた。その様子に韓凌白は柳眉を吊り上げる。

「そのわりには堂々としているのだな」

「当たり前さ。実験中だったとはいえ、一度に百人を殺せる毒を作ったんだからね。蠱毒でも何でも、毒使いたるもの一度で何人殺せるかが勝負だ。細かい技術よりもまずは人数だよ」

 いけしゃあしゃあと言い放つ藍蝶蝶を韓凌白はじっと見つめた――この女、もしかすると教主の御眼鏡に叶うやもしれぬ。

「女。名は何と言う」

 韓凌白が尋ねると、藍蝶蝶は「知らないよ」と答える。

ミャオの名前はもう使えないからね……そうだ、藍蝶蝶らんちょうちょうなんてのはどうだい? 青い羽の毒蝶さまだ」

 韓凌白は無言で頷き、「では、藍蝶蝶」と呼びかけた。

「この玄洞子と共に来てくれるか。是非会って欲しい人がいる。敖東海ごうとうかいの名を聞いたことはあるか?」

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