たかがガクハクト、されどガクハクト

 韓凌白の問いに岳伯都は目をしばたかせた。

「……何者も何も、僕はただの一般人です。転職活動中のフリーターで、あの日はデリバリーのバイトの途中でトラックとぶつかっただけで」

 三人からの反応はない。今度は彼がぽかんと開かれた三対の目に見つめられる番だった。

「……ええと、今のは漢語ですか?」

 胡廉が尋ねる。岳伯都は勢いよく頷いてから、ここが彼の生きていた頃とは全く違う時代らしいことを思い出した。時代劇の登場人物たちにフリーターだトラックだとまくし立てても、たしかに通じるわけがない。

「僕がいたところでは漢語として使っていたんですけど……」

 岳伯都はそう口ごもると、急いで言い換える言葉を探した。

「えっと、まず僕は何者でもありません。つなぎの仕事をしながら長く続けられて給料も良い仕事を探していて、そのつなぎの仕事の最中にでっかい車とぶつかったんです。これで通じます?」

「成程。つまり其方は定職には就かずに日雇いで職を変えており、その日雇いの仕事の最中に車にはねられたということか。たしかにあれに乗り上げられて無事で済む者はいまい」

「まず馬に蹴られた時点で骨があちこち折れるしねえ」

 何仁力が深く頷き、藍蝶蝶も神妙な面持ちで納得している。岳伯都は「いや、馬には蹴られてないんですが」と反論しようとしたが、思い直して口をつぐんだ。細部はともあれ、ひとまず意志の疎通が取れた状態を保つ方が良いだろうと思ったのだ。韓凌白と胡廉も納得しているようで、岳伯都はひとまず胸を撫で下ろした。

「では、名は何という。元々の名は」

 韓凌白の問いに、岳伯都はぎくりと身をこわばらせた。なぜなら現状を一番ややこしくしているものは多分これだからだ。

岳白斗がくはくとです……」

「それは肉体の男の名だ。お前の本当の名は何だ?」

「本当にガクハクトなんですよ! 山岳の岳に白色の白、北斗七星の斗で『岳白斗』です」

 岳伯都の反論に、韓凌白はゆっくり目をしばたく。次の瞬間、ゴツッという音とともに韓凌白の頭が卓子に落ちた。

「成程。それで別人ながら召喚されたと」

 他人事のように何仁力が頷く。

「まあ、人違いにしてもまだ良い方でしょう。中には名前どころか性別まで違う別人の体で復活した者だっているわけですし」

 胡廉は慰めるように韓凌白の肩を叩いた。韓凌白はいかにもな膨れっ面を持ち上げると指先を茶に浸し、空中にさらさらと三つの字を書き上げた。その動きにしたがって現れたのは「岳」「伯」「都」の三文字だ。

「覚えておけ。これが今日からお前が名乗る『岳伯都がくはくと』だ」

 韓凌白に言われ、岳伯都はこくんと頷いた。名前を書けと言われたときに間違えでもしない限り、少なくとも口を滑らせて全く違う名前を言うことはない。

 しかし問題は、次に韓凌白が発した一言だった。

「今日からひと月の後に、南岳衡山こうざんにて天下一を競う比武大会が行われる。各地から武術を生業とする者が集まって技の頂点を競い合うのだ。お前はそれに岳伯都として出場し、虎王拳こおうけんの二つ名に恥じぬ結果を持ち帰れ。なぜならお前は今この瞬間から、一騎当千、百戦錬磨の武林の覇王なのだからな」

「へ?」

 岳伯都の口から素っ頓狂な声が漏れた。食卓の面々を見回しても、四人は皆同じ目つきで彼を見つめ返している。

「案ずるな。我々も最大限助力する」

 韓凌白がもうひと押し、岳伯都の背中を押すようにぐっと彼の顔を覗き込む。

 それは期待と覚悟の眼差しだった。この赤の他人の入った岳伯都を名実ともに岳伯都本人として仕立て上げることがすでに決まっていて、覆すこともできないという目つきだった。しかし、「白斗」は体術の試合など、経験もなければ出たいと思ったこともない。学校の運動会が関の山だった上に結果も押して図るべし、輝ける一握りの精鋭を応援するその他大勢の一人に過ぎなかった。しかしやんぬるかな、彼は四人の必死の眼差しに負けてこう問うてしまったのである。

「ええと、具体的には、僕は何をすれば……」

 彼が最後まで言い終わらないうちに、四人ともが待ってましたとばかりに目を輝かせたのは言うまでもない。俄然熱を帯びた彼らの視線に、岳伯都ははたと思い至った――彼らはこの龍虎なんとか杯とやらに相当な思い入れがあるらしい。そればかりか、この大会に岳伯都を出させて良い成績を持ち帰らせることに全てを賭けているふしまである。

「まずは基礎訓練からだ。動きは体が覚えているだろうが、使う側にその経験がないのであれば感覚を叩き込む必要がある。それから知識も入れねばならぬな。内功、外功、軽功と、それぞれの原理を分かった上で実用に移さねば勝ち上がるのは不可能だ」

「点穴までは問わぬことにする。だが今しがた凌白弟が言ったことは開幕までに全て身につけるのだ」

「でないと恐ろしいことになりますよ、岳大侠。仁力兄に追い回されるどころの騒ぎじゃない、もっと痛くて、怖くて、本当に死にかねない目に遭うかも」

 韓凌白と何仁力に詰め寄られ、胡廉に脅されては、岳伯都には成すすべがない。とりわけ胡廉の一言は針のように彼の心に突き刺さった。トラックにはねられたときは痛みや恐怖を感じる前に意識が消し飛んだが、胡廉の言い方ではきっとそうはいかないのだろう。何より悪い冗談にしては他の二人の本気が過ぎる。こうなっては彼女が最後の砦だと、岳伯都はすがるように藍蝶蝶を見上げた――が、しかし。

「悪いね。あたしはどうしてもあんたが上手くやれなくて、教主の目を誤魔化すしかできなくなったときにを使うためにここにいるのさ」

 そう言った藍蝶蝶の袖がおもむろにうごめく。岳伯都が身構えた次の瞬間、凶悪な面構えの小さな蛇が刺繍で飾られた袖口から飛び出した。



 そして翌朝。

 岳伯都はまだ暗いうちから胡廉に叩き起こされ、髪を結い上げられて何仁力の待つ広場に送り出された。外見は英雄、しかしその内にいるのは一介の凡夫——おまけに人喰い僧侶だの毒使いの女だののろくでもない手合いに助けられながら、一か月の間にやったこともない武術を達人級に仕上げろときた。かくして新生「岳伯都」の苦難の一か月が幕を開けることとなったのだが、それはまた別の話である。

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