凡夫降臨す

 刹那、轟音とともに一筋の閃光が方陣の中心を撃った。見守る三人が一様に後ずさり、道士は真気を納めて呪符を焼き払う。


 紫煙が引いていく中、四人は呼吸も忘れて男をじっと凝視した。今しがた道士が執り行ったのは、死者をこの世に呼び戻す反魂の術の儀式である。この十年間、四人はこの男――かつて江湖に「虎王拳こおうけん」の異名をとどろかせた稀代の英雄、岳伯都がくはくとを生き返らせるために日時や場所を変えては何度も儀式を執り行ってきた。しかしただの一度も、空の色が変わることさえなかったのだ。

 それが今、何かが起きた。これで岳伯都が焼き尽くされておらず、さらに中身が入っていれば言うことなしだ。そしてそんな四人の期待に応えるように、紫煙の中の影は身じろぎ、ふらつきながら立ち上がろうとしている。四人はそれを見るや一斉に紫煙のたなびく中にすっ飛んでいった。

「岳英雄!」

 口々に呼びかけ、手やら肩やらを持って四人は岳伯都を助け起こした。立ち上がった岳伯都は四人よりも頭一つ分背が高く、また四人の誰よりも体格が良い。岳伯都は四人を交互に見回すと、目を丸くして「誰?」と言った。

「僕に何の用ですか? というかここはどこですか? 僕はなんでこんな格好を……ていうか筋肉すご……目線が高い……」

 辰煌台をぐるりと見回し、自分の体を見下ろし、岳伯都は呟く。四人は顔を見合わせて互いに頷くと、道士の韓凌白かんりょうはくが進み出て拱手した。

「岳伯都大侠、まさかあなたが再び紅塵を踏もうとは誰も思っておりますまい。この十年来、私、玄洞子げんどうしは、これなる朋友らと共にあなたの蘇生に全力を尽くしてまいりました。我ら四人、これからも一丸となってあなたを支え、今日の江湖を渡るお手伝いをすると誓いましょう」

 韓凌白が一礼するのに合わせて後方の三人も拱手し、深々と頭を下げる。しかし岳伯都は「えっ?」と素っ頓狂な声を上げ、四人をかわるがわる見回すばかりだ。

「どうして僕の名前を知ってるんですか? 十年来って何のことです?」

「お忘れですか? あなたはちょうど十年前のこの日、この時、まさにこの場所で自らお命を絶たれたのですよ。教主と私どもがいなかったらどうなっていたことか——」

「自殺う⁉︎ 僕が⁉︎」

 岳伯都が大声を上げて韓凌白を遮った。いきなり耳をつんざいた大声に韓凌白らは一様に眉をひそめる。しかし、そんな四人の反応など目に入っていないかのように、岳伯都は両手を振り回しながらまくし立てた。

「僕はそんなこと一度だってしようと思ったことないですよ! 病気とか怪我だってしたことないし、フリーターだけど別に食べていけてるし、転職先が全然決まらない以外は特に悩み事もないし! それに自殺なんて嫌ですよ、自分で自分を殺すなんて痛いし怖いしやりたくない……あれ、でも待てよ。僕たしか配達の帰りにトラックと……」



「……気のせいかねえ? さっきから知らない言葉が聞こえてくるけど」

 女が隣の仏僧に耳打ちする。岳伯都は急に険しい顔になったかと思うと一人でぶつぶつ呟き始め、四人のことなどそっちのけで思考にふけっている。仏僧が仏頂面のまま頷くと、今度は反対側の小柄な男が韓凌白の背をつついた。

「ねえ、凌白兄。こいつ、本当にあの岳伯都がくはくと英雄なんでしょうか?」

「どういうことだ、胡廉これん

 韓凌白が聞き返すと、胡廉は韓凌白の美貌にぐっと顔を近付けて耳打ちする。

「だって変じゃないですか。さっきから話は支離滅裂だし、口調も間抜けだし。岳伯都はもっと厳格で仰々しい喋り方をしていましたし、私たちのような邪教の徒を何よりも軽蔑していました。凌白兄も覚えているでしょう、あいつが自ら命を絶つ前に、この辰煌台しんこうだいで我らが教主を何と罵ったか? それに何より、正義と信条のために迷わず命を捨てた男が自殺は痛くて怖い、なんて言いますかね? 普通」

「たしかにねえ。呼び出したときに魂が欠けて狂っちまったか、はたまた正気のまま下手な芝居を打ってるんでなきゃ、本当に別人の魂を入れちまったってことになる」

 胡廉の言葉に四人の紅一点、藍蝶蝶らんちょうちょうも賛同を示す。韓凌白は柳眉を跳ね上げると胡廉に一言ささやき返した。

「此奴を試してみろというのだな」

「廉弟がそう言うのであれば、その価値はあろう」

 そう言って頷いたのは仏僧だ。その一言とともに、それまで淡々として一切の起伏の見えなかった表情が引き締まる。仏僧は空の右手をひと捻りすると、一瞬のうちに木製のこんを取り出して握り込んだ。手慣らしとばかりに棍を振り、勢いに乗って旋回すると、四人を窺っていた岳伯都がびくりと飛び上がった。

「な、何?」

 岳伯都が目を白黒させても仏僧の表情が緩むことはなく、またその全身から発せられる警戒も解けることはない。

「岳伯都殿。貧僧と手合わせ願いたい」

「……はい?」

 岳伯都はきょとんとして四人を見回し、その疑惑に満ちた眼差しにたじろいだ――無理もない、なぜならこの四人は同じ疑念を胸に抱いているのだ。すなわちこの岳伯都は、本来彼らが呼び戻したかった「岳伯都」ではない可能性がある。それを確かめるためには岳伯都が最も得意とし、その他の者は足元に及ぶのも困難だった技——武術に頼むのが一番だというわけである。


 岳伯都がくはくとは武林一の豪傑、江湖一の侠の者だ。十年前にこの辰煌台で自ら命を絶つまで、彼は天下に広く知られた英雄だった。では今ここにいる、十年ぶりに目覚めたばかりの岳伯都はどうか。


「狂僧何仁力かじんりき、賜教!」

「ちょっと待って⁉」


 仏僧何仁力は大声で宣言すると、即座に地を蹴って岳伯都に襲いかかった。四方八方から唸りを上げて降りかかる棍に岳伯都はなすすべもなく慌てふためき、悲鳴を上げて逃げ惑うので精一杯だ。的を外した棍は一度ならず石の地面を強かに打ち、そのたびに岳伯都は衝撃にあおられてたたらを踏んだ。しかし何仁力には腕が痺れている様子はなく、猛攻が止まる気配もない。

「助けてえー‼︎」

 情けない悲鳴が雲海にこだまする。その様子に韓凌白が肩を落とし、藍蝶蝶らんちょうちょうが笑いながら茶々を入れた。

「大丈夫、死にゃあしないよ! がんばって逃げな、仔虎ちゃん!」

 その隣では胡廉が息も絶え絶えに笑っている。大声こそ出していないものの、彼は目尻の涙を指で拭っては岳伯都を見、その醜態に吹き出しては肩を震わせるという流れを繰り返していた。

「いや、こう言うのもなんですけど、天下の岳伯都がとんだ腰抜けになったもんですねえ、凌白兄!」

 いくら仲間とはいえ、ここまで言われると落胆も怒りに変わってくる。韓凌白は苛立ちをこらえながら深呼吸すると、未だ何仁力に追い回されている岳伯都を睨みつけた。

「いやっ、無理、待って、やめて! 誰か助けて! 誰かあー! 殺されるー!」

 筋骨隆々の大男が髪を振り乱し、情けない悲鳴を上げながら逃げ惑っているというのは一種奇怪で異質な光景である。その逃げ方にも何らかの基礎があるようには見えず、また何か目的があって逃げ惑っているようにも思えない。

 本当にただの凡夫の魂を呼び出してしまったのか、あるいは岳伯都本人だが、魂が欠けたせいで凡夫さながらになってしまったのか。

 いずれにせよ、今ここで知りたいことは明らかになった。韓凌白は地を蹴って飛び出し、一瞬のうちに何仁力と岳伯都の間に入り込むと、岳伯都を左手で制し、何仁力かじんりきの棍を右手の払子に絡め取って「そこまで!」と叫んだ。

 何仁力はすぐさま手を引いた。しかし混乱の真っ只中にいる岳伯都は、韓凌白の手が逞しい胸に触れるなりわっと叫んで走り出した。

「おい! どこへ行く——」

 ついに韓凌白が声を荒げた直後。

 岳伯都は広場の端でけつまずき、悲鳴とともに雲海の中へと落ちていった。

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