天曜日月、人生の曙(一)

 山頂の広場のずっと下、山の中腹の開けたところに辰煌台の中枢はある。ここは道教を母体とする宗教結社・天曜日月教てんようじつげつきょうの本拠地であり、また各地から集まった教徒たちが助け合いながら生活している場でもある。

 しかしその真ん中に、呻き声を垂れ流す大男を背負った厳つい仏僧が現れ、そのあとを疲れ果てた様子の美丈夫と楽し気な男女がついて歩いていたらどうなるか。日々の仕事に精を出していた教徒たちは皆一様に顔を上げ、ぞろぞろと歩いていく仲間——厳密には四人は幹部である——を見送った。

「あの、韓道長……」

 壮年の男が意を決して四人に近付き、韓凌白に声をかけた。韓凌白かんりょうはくは彼を見もせずに

「教主に伝言を頼む。岳伯都の蘇生に成功したとお伝えしろ」

 と言った。

「えっ、本当ですか⁉ 岳伯都が⁉」

 男が驚きの声を上げる。彼らを見守っていた教徒たちも互いに顔を見合わせ、あっという間に驚愕と興奮があたりを支配した。

「なんだって⁉ あの岳伯都が生き返ったのか!」

「ついに成功したのね!」

「こいつはめでたいな!」

「全くだ。教主もさぞお喜びになるだろう!」

 四人を取り巻く群衆は口々に声を上げ、彼らの成功を称えている。そんな中、一際若い娘が遠慮がちに声を上げた。

「……でも、岳伯都はどこにいるの? 道長、蝶姐ちょうねえさん、まさか大師が背負っておられるのが彼だなんてこと……」

「……そんなことがあるんだねえ。残念ながら」

 藍蝶蝶がため息とともに答える。途端に群衆は落胆と否定の声を上げた。

「案ずるな。岳大侠は久しぶりの現世に混乱しておられるだけだ。だから教主にもそのようにお伝えしろ。教主の計画は滞りなく行われているとな」

 韓凌白が声を張り上げると、群衆は不服そうに言葉を交わしながらも三々五々散っていった。うち何人かがある方向に向かって駆けていくのを確かめると、韓凌白は何仁力に再び歩き出すよう促した。



***



 他の教徒たちの居住地からは少し離れたところに茅葺き屋根のささやかな屋敷と薬草畑がある。ここが四人に与えられた居住地であり、そしてすっかり魂の抜けてしまった岳伯都を連れ込んだ診療所であった。

「どうだい、虎ちゃんの具合は」

 居間に姿を現した胡廉これん藍蝶蝶らんちょうちょうが尋ねる。胡廉は前掛けで手を拭きながら彼女のいる中央の卓に座ると、彼女に答える前に何仁力が差し出した茶を訝しげに睨みつけた。

「……何も入っていないでしょうね、仁力兄」

「ただの粗茶だ」

 何仁力がむっとしたように眉をひそめる。すると長椅子に寝転がっていた韓凌白がむっくり起き上がって言った。

「茶は私が淹れた。何仁力かじんりきには手出しさせていない」

「なら良かった。いただきます」

 胡廉はけろっとした顔で言い放つと、茶杯を取り上げて一息に飲み干した。

「で? 虎ちゃんはどうなのさ」

「今は寝ています。気分を落ち着ける薬を煎じて飲ませたので、目が覚めたときには鎮まっていると思うんですが」

 胡廉の答えを聞くと、藍蝶蝶はふうんと呟いて頬杖をついた。目元に紅を差したつり目がちな双眸が悪戯な笑みをたたえて細められている。

「最悪でも放とうかと思ってたんだけど、その必要はなさそうだね」

「それだけはやめろ。教主に気付かれるとまずいことになる」

 韓凌白が横槍を入れると、藍蝶蝶は「分かってるわよ」と言って目の前の茶を一口飲んだ。

「ま、一旦事が始まればいくらでも放てるからね。久々に腕が鳴るよ」

 おどけたように腕を伸ばす彼女の横で、胡廉は二杯目の茶を注いだ。

「でも、本当にやるんですか?」

 胡廉はそう言って韓凌白を見た——口調こそ他人事のような軽さを保っているが、その顔は藍蝶蝶ほど気楽ではなく、むしろこれからのことを憂いているようだ。

「だって、あれじゃ無理ですよ。あんなのがあと一か月で、元の岳伯都並みになって龍虎比武杯で戦えるなんてとても思えません。教主はあれに、素文真そぶんしんとか南宮赫なんぐうかくとか、あと常秋水じょうしゅうすいみたいな武林の達人たちと対戦して勝つことを期待しているのでしょう? でもあの調子じゃ、どこの馬の骨とも知れない若造にだって勝てやしない」

「それは同感だが、教主の決定は絶対だ。どうにか説得して出させるしかなかろう」

 二人の前に座っている何仁力が腕を組み、仏頂面のまま頷く。

「だが、そのための訓練はどうするのだ。あれをどうにかするのは骨だぞ」

 韓凌白が尋ねると、何仁力はため息とともに

「基礎から取り組むしかあるまい」

 と答えた。

「少なくとも反射神経は鈍っていない。あの場では何一つ動けていなかったが、おそらく套路や型は体がまだ覚えているはずだ。感覚さえ呼び起こしてしまえばあとは早いのではないか? さすれば我々で収集した拳譜も腐りはすまい」

「では外功の方は何仁力に任せるとしよう。問題は内功だが……」

 韓凌白は頷くと、柳眉を寄せて考え込んだ。

「……さすがに一か月の修練で元の功力を発揮できるとは思えん。鍛錬と並行で丹薬を飲ませるとしよう。それで使い方と感覚を思い出させれば、何とか間に合わせられるかもしれぬな」

 韓凌白の出した結論に、何仁力はうむと頷いた。

 江湖人の使う武術は、空手でも、刀剣やその他の武器を扱う場合でも、全て二つの基本要素に分けられる――実際の動きと体内の気、すなわち外功と内功だ。この二つを同時に操ることで歴代の達人たちは名声を欲しいままにし、皆から崇められてきたのである。特に内功の修練は茨の道であり、少しの間違いが肉体を著しく傷つけることもあるほどだ。しかし、ひとたび内功を極めれば、その者はただ相手を蹴ったり殴ったり、刃物で斬りつけたりするだけでは到底出せない威力を発揮することができるのである。

 何仁力は教内の武術師範を任されるほどの豪の者、また韓凌白は内功の扱いに長けた道士である。呼び出した魂が岳伯都本人ではないらしい以上、二人がかりで鍛え上げればまだ進展も見込めるかもしれないという淡い期待に賭けるしかないのだ。

「……でも、鍛錬の前に話をつけておかなくていいのかい?」

 藍蝶蝶が思い出したように言って韓凌白と何仁力を見やる。すると胡廉が横から割り込み、

「今晩、岳伯都も入れて五人で食事をしましょう」

 と自信たっぷりに言い放った。

「そこで龍虎比武杯のことを話すんです。夕方起きてくるころには気分もだいぶ落ち着いていると思いますし、腹が満たされれば緊張も緩む。話をするならその方がいいでしょう?」

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