反魂転生・江湖にようこそ

故水小辰

第一章 お帰りなさい、大英雄

蘇れ、岳伯都

 ときは洪武某年、北の親王が皇帝に反旗を翻したころのこと。彼らさえも知らない中原の山奥に、辰煌台しんこうだいと呼ばれる砦があった。

 切り立った山頂には岩を切り出して作られた王座があり、すぐ下には石造りの広場が、そしてその周囲には一面の雲海が広がっている。王座より見下ろす景色は荘厳そのものであったが、今この椅子に座って景色と少しばかりの優越感を楽しもうと思っても、それはすぐさま中断されてしまうことだろう――なぜなら眼下の広間には巨大な方陣が敷かれ、怪しげな紋様の描かれた六十四の縦長の旗によってぐるりと丸く囲まれていたからだ。

 王座のすぐ足元には祭壇が設けられ、様々の法具が並べられていた。そこでは美丈夫が一人、すらりと長い指でもって法具を丁寧に検分している。ふと美丈夫は目を上げると、山を下りる階段へと視線を向けた。折しも肩に人を担いだ別の男がやって来て鷹揚に片手を上げる。この男、装いこそ仏僧のそれだが、着物の前が大きくはだけて隆々たる胸筋が見えている。坊主頭のうなじと首も見るからにごつく、またそれが人さらいよろしく肩に人――それも大の男を担いでいるとあっては、とてもまともな僧侶とは思えない。

 一方の美丈夫は、細身な身体に道袍をまとい、腰まで伸びた黒髪の半分を後頭部で丸く結い上げていた。残る半分は背中に流して風になびかせていたが、その黒さと艶やかさたるや、かつての絶世の美女たちが黄泉の底から揃って羨望の眼差しを向けるほどだ。事実、彼はその美貌をいたく気に入っており、自らを史上最も有名な美男子になぞらえて「辰煌台の潘安はんあん」と称していた。とはいえその傲岸不遜さから敬遠されることの方が多く、女子から慕われたり、あまつさえ花や果物を投げてもらえたりということとは全く無縁の男ではあったのだが。


 厳つい仏僧は担いできた男を陣の中央で下ろすと、力なく垂れる四肢を上手く折り込んで胡坐をかかせた。

 当の男は目を静かに閉じたまま微動だにしない。歳は四十半ばだろうか、袖の詰まった質素な短袍を着ているが、その上からでも一目で分かるほど堂々たる体躯の持ち主だ。ぱさつき、色の抜けた茶色の長髪がばらばらと落ちて顔の周りに影を作っていたが、両目を閉ざしてもなお雄々しさを失わない顔つきにはそれが不思議と合致して見えた。むしろ一種の猛々しささえ醸し出していた——激戦の末に倒された猛虎が再び起き上がり、怒り狂って反撃に出る、その一瞬前の静寂に似た威圧感が男の全身から発せられている。

「これでいいか」

 祭壇の前まで歩きながら仏僧が男を指さした。道士は頷くとよく晴れた空を見上げ、滑らかな眉間にしわを寄せた。

「成功さえすれば、だが」

 顔を下ろし、ため息をついて、道士は眉間を軽く揉む。

「教主も教主なのだ。そもそもが一度拒まれたらそれで終わりだというのに、十年間も呼び続けるなど時間と功力の無駄遣いだ。全く、私がこの黒髪を保てたのも奇跡と言うほかない」

「だが今回は場所も日時も完璧なのだろう。成功するなら今日しかないと、朝方あれだけ豪語していたではないか」

 仏僧の言葉に道士はもう一度ため息をついた。

「理論の上では今日しかないというだけのことだ。ここまでくれば別人の魂を押し込む方がまだ話が早い」

 道士はかぶりを振ると、今しがた階段を上ってきた二人組に目をやった。一人は背の高い女で、色鮮やかな刺繍が目を引く黒の長袍と銀細工の首輪や腕輪、耳飾りで着飾っている。ひっつめた黒髪も銀細工の被り物でまとめており、漢族のようなそうでないような、どこかちぐはぐな装いだ。もう一人は小柄な若い男だが、下働きの制服のような白地の長袍に紺の前掛け、紺の半袖の上衣という至って質素な装いだった。二人は遊覧にでも来たかのように方陣とその中央に座る男とを眺めて言葉を交わしながら、悠々と祭壇まで歩いてきた。

「全部準備できたのかい?」

 女が口を開く。道士が頷くと、今度は男の方がにこりと笑った。

「ようやくですねえ。十年越しの復活だ」

「成功すればだ。失敗したら適当な奴を探して殺さねばならなくなる」

 道士はすげなく言い返すと、もう一度空を見上げて目を細めた。

「……時間だ。始めるぞ」

 その一言に集まった三人の顔が引き締まる。三人が無言のままに祭壇の横に移動するのを見届けると、道士は払子を置いて法具と呪符を手に取り、よく通る声で詠唱を始めた。


 

 一方、漢の土地という以外は場所も時代も全く異なる現代の街角。高層ビルの林の中、歩行者と車でごった返す通りを自転車で走り抜ける一人の若者があった。背中には四角いリュックサック、頭にはヘルメット、格好を付けようと買ったいかつい自転車にナビ代わりのスマートフォンを取り付けてそれなりに颯爽と走るこの青年はしかし、次に曲がった交差点でトラックともろに衝突する。

 岳白斗がくはくと、交通事故により二十七で他界。大学を卒業して最初に勤めた会社を辞め、転職先を探しつつアルバイトに精を出すことはや二年という生活の中で起きた実に不運な事故であった。ところが、彼は泰山への道を歩き始めたところで、なぜか脇道に引きずり込まれる。こうして黄泉に行きそびれた彼の魂がたどり着いたのは、歴史にも残っていない辰煌台だった。



 その辰煌台では、例の美貌の道士が長々と続いた呪文の最後の一節を唱えているところだった。

 いつの間にか空には暗雲が立ち込め、所々で霹靂が白く光を放っている。六十四の旗が強風にはためき、道士の朗々たる詠唱が波打つ雲海を震わせる。


「我、玄洞子げんどうし韓凌白かんりょうはく、大上老君と東岳大帝の名に於いて汝に命ずる。黄泉路を捨て、安らぎより目醒め、再び陽間に顕れ給え!


 蘇れ、岳伯都!

 蘇れ、岳伯都!

 蘇れ、岳伯都!」

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