この時空ごと埋めてしまってよ

入江弥彦

時空ごと

 校舎は、二階まで埋まった。

 

 地面がせり上がり始めてから五年が経っただろうか。綺麗な中庭に憧れて入学したはずなのに、中庭はもう土の中だ。受験の時に知っていればこの学校を受けることはなかったのに、と思ったが中学生用のパンフレットやポスターにはばっちり中庭が写っていたので、高校側もアピールポイントがよくわかっていたということだろう。

 

 いよいよ生活に支障が出始めて自由登校になった高校に、私はまだ通っていた。家に居場所がないだとか、好きな人が居るとか、そんなたいそうな理由はなくて、ただなんとなく変化していく街を見るのが好きだった。


 ごごごと大きな音を立てて突然地面が盛り上がる。そこにあったものは埋まってしまうから、ただ隆起しているだけではないのかもしれない。毎日の時もあるし、一ヶ月に一回の時もある。詳しいことは発表されていないけれど、私たちには言えない研究結果が出ているのかもしれない。


 駅の屋根の上を歩いて学校に向かっていると、昨日まで通れたはずの道が塞がっていた。一部だけ大きく隆起したらしい。



「ねえ、あなた」



 仕方なく回り道しようと後ろを向くと、可愛らしい女の子が立っていた。同い年くらいだろうか。黒髪はゆるく巻かれて、赤すぎるリップが印象的だ。小さな口が薄く開いて、声をかけた相手はきっと私なのだろう。



「なんですか?」


「こんな終末になにをしているの?」


「週末? 今日は火曜日です」



 私の返事を聞いた彼女がきょとんとした顔をしてからそうねと笑った。その顔がなんだか馬鹿にしているように見えてムッとする。



「なんですか」



 語気を強めてもう一度そう言うと、女の子はお人形産みたいな顔をぐっと私に近づけた。



「下着を買ってくださらない?」


「は?」



 我ながら間抜けな声が出たと思う。下着屋さんの人なのだろうか。それにしたって道行く人に売るなんて、よっぽど困っているのか。すると彼女は唇と同じ色をした赤いスカートをたくし上げて、にっこりと可愛く笑った。とても可愛く。



「これ、買ってちょうだいよ」



 使用済みの下着を売る、ということは相手はそういう対象なわけで。私には知るよしもない世界だけれど、この女の子はきっとそうして今まで生きてきたのだ。



「私は、女なんですけど」


「わかっているけど、だってもうしばらく男の人を見てないから」


「だからって」



 反論しようとしてから、彼女がとても困った顔をしていることに気がついた。寂しそうな、不安そうな表情だ。可愛い笑顔に気を取られていたけれど、眉は下がっているし、少し手も震えている。今までこうして生きてきた彼女なりのコミュニケーションの取り方なのかもしれない。



「明日、明日まで考えます。だからここで」



 自分がとても悪いことをした気分になって、そう言い残して走り出した。その日の学校は先生が来なくて、授業もなかった。三階にある音楽室は砂に沈んでいた。


 次の日も女の子はいた。相変わらず下着を買えと言うけれど、私は無視して彼女に色々問い詰めた。どこに住んでいるのか、学校には通っているのか、どうしてこんなことをしているのか。



「ルナコ、あなたと同い年」



 彼女が教えてくれたのはそれだけだった。


 その日から、学校にはいかなくなった。駅だった場所を散歩するルナコを捕まえて、自分の話を聞かせた。彼女は笑ってくれたし、悲しそうな顔もしてくれたし、下着を買えと言ってくる以外は普通の、いや、普通よりずいぶん可愛いただの女の子だった。


 地面の隆起に何の関係があるのかはわからないけれど、今年からは季節がなくなった。そういえばもう十二月なのに過ごしやすいね、なんて話をルナコとするまではその事実に気がつかなかったのだから、慣れというものは恐ろしい。



「ねえ、ルナコ、今度でかけようよ」


「どこに?」


「どこでもいいよ、いつでも駅前なんて代わり映えしないし」


「ここは駅前じゃなくて駅の上だけどね」



 揚げ足をとってケラケラと笑うルナコが、じゃあ来週にしましょうと言って手を叩いた。ぱちんと小気味良い音がなって、私は彼女とさらに仲良くなれることに胸を躍らせた。


 けれども、彼女は来なかった。


 駅の周りを三回まわっても彼女はいない。諦めてうつむくと、赤い布が視界にうつった。ちょうど、ルナコの唇の色と同じ赤だ。思い切って引っ張ってもびくともしない。そういえば、この前まで見えていた電信柱の先が消えている。代わり映えのしない景色は、本当は静かに変わっていたのだと気づいた。気づかなくてもいいことと同時に。






 その日から、地面の隆起は止まった。きっと、長い時間をかけて復興していくのだろう。どうせなら、私のことも埋めてくれたら良かったのに。もっというなら、この世界ごと、終わってしまえば良かったのに。


 少しでも彼女の気持ちに近づけるならと、髪を緩く巻いて赤いグロスを塗った。


 けれども、下着を買ってくださらない? その言葉を言ったことは、まだない。


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