第75話 抽象で具現化させる

物語は抽象を用いて具現化させるもの


 おとぎ話も童話も寓話も落語も、そして小説も。

 文芸である物語とはつまるところ「抽象を具現化させる」ものです。

 そもそも「抽象」という言葉自体が「具体的ではありません」。


 どんな言語であっても、「日が昇る」だけではあまりにも抽象に過ぎます。

 そもそも「日」とはなんでしょうか。

 太陽のことですよね。であれば「太陽が昇る」と書いたほうが具体性は高まります。

 しかしどのような太陽なのかがわからない。まだまだ抽象です。


 それなら「水平線を赤く染めて太陽が昇る」と書けば具体的だろう。そう思ってしまいますよね。

 これでもまだ抽象なんです。

 「太陽が水平線を赤く染めて」いる光景を見たことがある人なら、そのときの記憶を引っ張り出してきて当てはめられます。だから脳内でそのときの情景を再生できます。

 ですが、すべての人が見ているわけではない。また見たことがある人でもそのときの記憶へ強制的に紐づいてしまう。

 これでは、たったひとつしかない、今の「日が昇る」を読み手へ正確に伝えるのは現実的に不可能なのです。


 だから詳しく書いても無駄だ、と言いたいわけではありません。

 上記の「水平線を赤く染めて太陽が昇る」のように、いくらかのイメージを誘導するワードを伴っていれば、幾分具体的ではあります。

 それでも、言語というのはつまるところ「抽象」なのです。

 「日」「月」「星」と書いてもどのような天体の様子を思い浮かべるのかは百人百様。

 皆の心の中にあるものと必ず一致するわけではないけれども、「月」と書いて満月を思い浮かべるか上弦の月を思い浮かべるか三日月を思い浮かべるか。書き手は操作できませんし、読み手も強制されません。


 もし強制したいなら「満月」とか「上弦の月」とか「三日月」とか書けばよいわけです。であっても、どの位置に昇っているのかは強制されていません。水平線ギリギリかもしれないし中天かもしれない。


 「星が散らばる」だってどのくらいの数かがわかりません。

 「百万の星」かもしれませんし「東京の夜のようにやっと一等星が見える」くらいの数かもしれません。

 今の若い都民に「天の川の星々」は連想できない。見たことがないのですから。

 だから海外や、国内でも街路灯のない田舎へ行って夜空を見上げれば、東京では味わえない星空が広がっています。


 つまり「星が散らばる」と書いても、今の東京では一等星がやっと見える程度でかなりまばらな散らばり方です。海外や田舎のような「満天の星空」は思い浮かぶはずがありません。おそらくこのコラムを読んでいる都会住まいの若い書き手の方も想像できないはずです。

 見たこともないものをあたかも見たかのように具現化するのが文芸であり物語なのです。




記憶になければたとえればよい

 見たこともないのに「満天の星空」は想像できるはずがない。

 この壁を越えるには、なにかにたとえて想像力を喚起するしかありません。

 つまり「比喩」です。


 ある程度まばらだと考えて、もしパチンコ台を見たことがある人に向けてなら「釘が打ち付けられたパチンコ台のような星空」と書けば「そのくらいの密度か」と具現化できる。しかしパチンコ台を知らない人には伝わらない。

 もっと密度が濃くて「満天の星空」を表現したければ、「遠くからスプレーを噴き付けたような星空」と書けば、スプレーを使ったことがある人になら具現化できます。使ったことがなければ伝わりません。


 つまり、「パチンコ台の釘」であろうと「スプレーを噴き付けた」であろうと、結局は「抽象」なのです。

 書評家の「この表現には唸らされた」というような逸話は、書き手の「抽象」と読み手の「抽象」が合致したことを単に示しているだけです。

 すべての選考委員が唸るような「抽象」を具現化する表現というものはまずないと思ってください。

 そのうえで、多種多様な経験を積んでいる選考委員の誰かひとりにでも刺さる「抽象」を具現化する表現ができるかどうか。

 できたとして、運良く刺さる選考委員に原稿が当たるかどうか。

 すべて運です。




運を引き寄せるために

 運だからこそ、多種多様な「抽象」の具現化を試みるべきです。Aの表現が刺さらなくても、Bの表現、Cの表現、Dの表現と多種多様な「抽象」の具現化を試みれば、どれかひとつでもあなたの作品を読んでいる選考委員に刺さる可能性があります。

 それもまた運です。


 事細かく比喩で指定したほうがよい物語だとは言えません。

 しかしまったく「抽象」しか書いていなければ、物語の中でもおとぎ話レベルでしかないのです。

 「木が花を咲かせている」として、桜なのか桃なのか梅なのかはわからないですよね。

 これが物語となったのが『花咲かじいさん』です。

 「枯れ木に花を咲かせましょう」と書いていても、どんな木でどんな花かはわからない。

 「枯れ木」という「抽象」に、「花」という「抽象」を咲かせようとしている、ことだけはわかります。

 これを読んで明確な映像が思い浮かぶ人はエスパーです。

 小説など書かずに超能力で世間を賑わせてください。

 たとえば「桜」だとしてソメイヨシノでないことは明らかです。この「花咲かじいさん」の時代にはソメイヨシノという品種は存在していないからです。八重桜やヒガンザクラ、枝垂れ桜かもしれませんね。

 このように種類を特定すれば、その種類の花を知っている人は「抽象」が具現化します。




あらゆる言語は抽象

 そうです。あらゆる言語はすべてが「抽象」なのです。像を具現化するには受け手の記憶に頼るしかありません。

 「東大寺の大仏」と書かれていても、それを見たことがない人は具現化できません。記憶がないからです。

 「高さ十五メートルの坐像の大仏」と書けば、高さは具体的な数値ですし、「坐像の大仏」とあるので同種の「鎌倉の大仏」を知っていればどのようなものかは想像ができます。

 しかし「坐像の大仏」を見たことがない人には伝わりません。たとえば外国とくに欧米の方ですね。キリスト像は見たことがあっても、大仏を見たことはあまりないはずです。


 では受け手に記憶がないものを表現したい場合、どうすればよいのか。

 想像力に働きかけるのです。




受け手の記憶や想像を利用する

 先ほどの「釘が打ち付けられたパチンコ台のような星空」も「遠くからスプレーを噴き付けたような星空」も、そのものを見たことがある人なら具現化できます。

 仮に知らなかったとしても、そういうものを想像して映像を浮かべることはできるはずです。

 この「知らないものは想像で補う」のが文芸とくに物語には不可欠です。

 誰も人を斬ったことがないのに、剣戟アクションでバッサバッサと斬り倒していく爽快感。そのときのイメージはドラマの「時代劇」で見たもののはずです。つまり近しいものから想像で補ってしまえます。

 だから、「抽象」を具現化するには、記憶と想像の両方に訴えかけるのが肝要です。


 「水平線を赤く染めて太陽が昇る」も記憶があればそれを思い浮かべ、記憶がなければ想像で補ってみようとする。

 この表現が選考委員に刺されば評価され、刺さなければ落選する。

 ただそれだけです。


 十万字にひとつの比喩だけで勝負するのは分が悪い。

 記憶や想像に訴えかけると読み手の脳のリソースを消費します。

 だから「抽象」で済ませられるものは「抽象」のままでよいのです。


 たとえば「エルフは森に住んでいる」としましょう。

 ではこの「森」はどんな木で構成されている「森」なのか。

 楢、樫、杉、檜、楓などなど。

 特定することになにか特別な理由があるでしょうか。

 たとえば樫の森のエルフ族と、檜の森のエルフ族が争っている。

 これなら「なんの森」かは重要です。

 しかし、木の種類はまったく関係ない物語だってあります。その場合は単に「森」と書いてしまってかまいません。

 「森」という「抽象」がエルフ族にのみ影響を与えるのなら、「森」でよいのです。




最後に

 今回は「抽象で具現化させる」ことについて述べました。

 どんな言葉を尽くしても、言語はつねに「抽象」であり、漠然としたイメージしか持っていません。

 漠然としたものをくっきりはっきり見せるために、比喩を用いるのです。

 わたりきったものに比喩を使うのは駄作確定です。

 「耳の先が尖ったエルフ」なんて手垢がつきすぎてこれだけでも駄文です。

 どのくらい尖っているかを比喩で語れるか。

 その比喩を知っている人は記憶から呼び起こし、比喩を知らなかった人は想像を喚起される。

 このバランスが物語の明瞭度を左右します。

 比喩を使うときは、記憶と想像の双方に働きかける意識を持ちましょう。



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