第74話 比喩と擬態語で描写しよう
比喩と擬態語で描写しよう
小説は新聞記事と異なり、許される文章技術があります。
「比喩」と「擬態語」です。
新聞記事で「轟々とまるで地獄の業火さながらの火災現場から、火にくるまれた男性が慌てて飛び出してきた。」と書くことはいっさいありません。
「轟々と」「地獄の業火さながらの」「慌てて」は文章を書いた記者の感性の問題であり、客観性がないのです。すべての新聞読者が同一の「轟々とまるで地獄の業火さながらの火災現場」をイメージできません。人によって火災の規模に大小の差が出てしまう。
客観的事実が求められる新聞に、個人の感想を書くのは禁じられています。
社説やコラムでは「比喩」も「擬態語」も使えます。これらが新聞社やコラムニストの立場からの「私信」であるから可能なのです。
正しすぎる文章の弊害
文法的に正しい文章が書けるのに、読み手に響かない小説というものもあります。
たいていはウケないので売れないんですけどね。
なぜ正しいのにウケないのか。
「正しすぎる」からです。
すべてが客観的事実で書かれているため、誰も反論できません。
反論できない文章というのは、冷厳とした真剣を思い起こさせます。
存在するだけで皆の神経がピリッとして、うかつなことができなくなるのです。
正しすぎる文章に反論しようとしても、あまりの正しさによってバッサリと斬り捨てられます。
正しい文章は小説にも求められますが、正しすぎる文章は物語を味気なくするのです。
ちなみに「冷厳とした真剣」は「比喩」、「ピリッとして」「バッサリと斬り捨てられる」は「擬態語」であり、両者とも新聞記事では使われません。
ですが上記の文章を読み返すと、文章の持つ感覚が明確です。
つまりこれらは新聞記事の類ではなく、小説を含む散文の類となります。
もし比喩も擬態語も禁止すると、私の意図が表現できないのです。
だから私は「意図的に」比喩と擬態語を用いました。
ここからわかること。
小説を含む散文では、正しい文章なのはもちろん、比喩と擬態語をしっかりと書いて読み手のイメージを喚起することがたいせつです。
行間を生むには
よく「行間を読む」と言います。
『「小説の書き方」コラム』でも書きましたが、行間は正しすぎる文章からは生まれません。正しすぎる文章は誤解をすべて排するために行間が生じてはならない。
小説を含む散文では逆に、比喩と擬態語によって書かれている文章にイメージをまとわりつかせるのです。
そうして行間を生み出して、想像力が働く文章を目指さなければなりません。
もちろん正しい文章を逸脱して行間を求めるのは無謀です。
正しい文章に想像力が働く機能を付け加える。
それが正しい「比喩」と「擬態語」の用い方なのです。
もちろん凡百の「比喩」は文章の格式を落とします。
書き手の感性が反映された比喩
たとえば「大きな音を立てて雨が降っている。」という文章は正しいのですが、イメージが湧きません。説明としては完璧でも、味わいがない。
これを「バケツを引っくり返したような雨が降っている。」とするだけで、想像力が働きます。「比喩」の力です。
しかし「バケツを引っくり返したような」はあまりにも凡百な「比喩」です。
こんな文を読まされて「うまい文だ」などと言う人はいません。
どうせ「比喩」を使うなら「ナイアガラの滝壺にいるかのような雨が降っている。」としてみましょう。
どうですか。おそらく目新しい「比喩」だと思います。
でも言わんとしていることは理解できるし、雨量も轟音もイメージできますよね。
目新しい「比喩」は、それだけで文章の格式を高めるのです。
小説に求められるのは、書き手の感性が反映した文章です。
正しすぎる文章でも、凡百な表現でもありません。
そんなものが読みたければ、新聞や児童文学で事足りるのです。
小説を含む散文で格式を求めるのであれば、書き手の感性が反映した文章、つまり独特の「比喩」と適切な「擬態語」が求められます。
適切な擬態語
「擬態語」は適切な言葉を使えばいいのです。
独特の「擬態語」は読み手を置いてけぼりにします。付いてこられないのです。
だから「擬態語」は適切なものが求められます。
「バタリと倒れた」「すべすべした柔肌」のように、適切な「擬態語」は読み手のイメージを喚起します。
もし「ガランゴロンと倒れた」なんて書いたら、どんな倒れ方なのかわからないですよね。身近にある「ガランゴロン」は神社の本坪鈴くらいなものです。では神社で倒れたのでしょうか。
これが正しくない「擬態語」です。まったくイメージが湧きません。
最後に
今回は「比喩」と「擬態語」の重要性について述べました。
小説の文章は「比喩」と「擬態語」で行間を生みながら書き進めるものです。
文法として正しい文章であるのはもちろんのこと。
そのうえで独特の「比喩」と適切な「擬態語」を駆使するのです。
読み手が小説で味わいたいのは「行間」つまり「イメージ」です。
文章は「行間」を生み出すためのものであって、情報を過たずに伝えるだけでは半分の機能しか用いていないのです。
「行間」を生み出すのは「比喩」と「擬態語」の力です。
そして手垢にまみれた「比喩」よりも書き手の感性が反映された「比喩」が求められます。「手垢にまみれた」も凡百な比喩ですね。
適切な「擬態語」があるだけで文が動き出します。「擬態語」のない文は止まったまま動かないのです。動作にしろ感想にしろ音にしろ。変化が見えるように描くのが「擬態語」の役割です。
小説の文章をアップグレードしたい方は、今書いている作品へ独特の「比喩」と適切な「擬態語」を混ぜていきましょう。
最初のうちはぎこちないでしょうが、自然と文が動き出して映像や音声がはっきりと伝わる文章になっていきますよ。
「比喩」と「擬態語」が鍛えられていないから、新聞記者出のベストセラー作家はほとんどいないともいえます。
新聞文章に塗り固められていない私たちには、無限の可能性があるのです。
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