第5話 雨上がりの公園

「座る場所はあるか?」

「斜め前……あっーと、十一時の方向にベンチがある」

「ふむ。じゃあ、僕はそこのベンチで待っているから、存分に話すと良い」

「ちょっと待てよほんとに待ってください一人にしないで」

「おい、掴むな。安心しろ、刺される前に守ってやる」

「どうやってええ!」


 雨上がりの公園。秋生は男と連れ立って川沿いにやって来ていた。

 整備された歩道は休日ならば人も多いだろうが、平日の昼下がりということもあってか、人はまばらだ。

 何か事件があっても誰も駆けつけてくれないかも知れない。それがより一層秋生の恐怖を増幅させた。


「大丈夫だ。生霊は長岡梓じゃないと言っただろう」

「そうは言っても……」


 ここに来る前、男から生霊の正体を聞かされた。とはいえ、長岡が秋生を怨んでいないとは限らない。

 長岡が自殺未遂を図ったのは確かに長岡の一方的な好意と行き過ぎた思い込みがあったせいではあるのだが、それでも非は秋生にもあった。怨まれてもしょうがないとも思っている。

 だがそれと殺されていいかどうかは別であった。


 何があるかわからないのに、会いたくない。

 それでも男が合わなければ解決しないというので、秋生は渋々長岡と連絡をとった。

 今日会いたいという突然の無茶な連絡にも関わらず、長岡は快く了承してくれた。


 そんなこんなで、秋生は男から適当な服を借りて、今ここに立っている。


「そろそろ来る時間だろう。じゃあな、気を付けろよ」

「怖いことを言うな!」


 男は不吉なことを言うと、白杖を使ってベンチへと歩いて行く。男が座ったのと、秋生が後ろから声をかけられたのはほぼ同時だった。


「先輩」


 途端、秋生の額に嫌な汗がじとりと浮かぶ。鼓動がどくどくと早くなり、手が震えた。視界が歪む。ひゅっと目の前を上から下へ何か横切った気がして、秋生は急いで口を押さえた。叫びだしそうだった。目の前に、血が。


「先輩……?」

「うわあっ!」

「きゃっ」


 突然視界に長岡の顔が入ってきた。秋生は驚きに声を上げ、長岡はその秋生に驚いて声をあげた。ばくばくと激しくなる心臓を押さえる秋生だが、長岡の姿を見て小さく声を出した。


「長岡……足……」

「あ、そうなんです。まだ治ってなくて」


 長岡は車いすだった。両足にギプスを巻いて、自分で車いすを動かしている。痛々しい姿に見えたが、長岡は朗らかに笑った。


「足から落ちたみたいで、手は無事で……そこは良かったです」

「でも、血が……」

「血……? ああ、頭が少し切れてたんで、それのことですかね? そこはもう治りましたよ」


 長岡は笑って自分の頭を撫でる。その様子に秋生はほっと息を吐いた。

 あの事件の後、秋生は逃げるように会社を辞めた。そのため長岡の怪我の状態などの詳しいことは把握していなかった。


 大丈夫そうで、良かった。秋生は一つ、肩が軽くなった気がした。

 それにだ。会った瞬間に怨み言の一つでも言われると覚悟していたが、その様子もない。むしろ秋生の知っている長岡よりも生き生きしているというか、何か吹っ切れているように見受けられた。


「あの、今日は連絡してくれて、ありがとうございます。私も話したいことがあったので、会えて良かったです」

「話したいこと?」


 秋生は男に言われて、長岡に今日話したいことがあるから会いたい、と連絡をした。その時の長岡の返事は了承だけだったので、彼女も話したいことがあったというのは初耳だった。

 首を傾げる秋生に、だが長岡は慌てて首を振る。


「あ、でも、先輩の話から先で大丈夫です」

「あ、いや、俺のは後でいいよ! そっちから先にどうぞ……」


 秋生も慌てて首を振る。

 実際のところ、会って何を話せばいいのか秋生にはわからない。男の言われるままに連絡したので、秋生は流れに身を任せるしかなかった。

 ただ、それでも一言、彼女に言いたいことはあった。


 だがそれは長岡の話を聞いてからにしようと、秋生は彼女を見つめる。

 長岡は遠慮がちに秋生を見上げ、やがて意を決したように頭を下げた。


「ごめんなさいっ!」

「え……」


 長岡の口から出たのは謝罪だった。頭を下げるその真摯な姿に、秋生はしばし言葉を失う。彼女はまた、頭を下げたまま謝罪を口にした。


「色々ご迷惑かけて、本当にすいませんでした!」

「え、いや……え?」


 思ってもいなかったその言葉に、秋生はうろうろと手を彷徨わせ、きょろきょろと辺りを見回した。どうしたらいいのか混乱しているのだ。視界にはいった男は目を閉じて正面を向いていて、こちらの話を聞いてるのかもわからない。

 どうしたらいいのか、どう声をかけていいのか混乱しているうちに、長岡はゆっくりと顔を上げた。


「……私、飛び降りて……飛び降りるまでは、先輩のこと、酷いって思ってて。凄く悲しくて、私はこんなに好きなのに、なんでわかってくれないのって……」


 あの時の気持ちを思い返しながら、長岡は伏し目がちにぽつりぽつりと語った。膝の上に置かれた両手は、長岡自身のシャツを強く握りこんでいる。


「でも飛び降りて、その瞬間に、死にたくないって思いました。次に気づいたら病院だったけど……両親も泣いてて、私、馬鹿なことしたなって。

 何があったのか警察の人に話したら、私のやったことはストーカーだってはっきり言われて。両親からも怒られました。

 それで私、舞い上がって先輩に迷惑かけてたんだって、気づきました。……あの、本当に、すいませんでした!」

「……そう、か……」


 頭を下げる長岡に、秋生は驚きを隠せずにそれだけを返す。長岡の変わりように心の底から驚いたのだ。

 だが同時に、彼女との対話を疎かにしていた自分自身に気が付いた。

 秋生はやんわりとした拒否は示していたものの、強くは彼女に言わなかった。会社の女の後輩という立場上、遠慮があったのだ。結果それが長岡の勘違いを増長させてしまった。


 もっと早く、こうやってちゃんと話しておけばよかった。そうすれば、長岡は怪我することもなかったのか。彼女の足を見て、秋生は思う。

 だがそれは考えてもどうしようもないことであり、結果いい方向に長岡の気持ちが向いたとも考えられる。秋生はもう考えるまいと、浅く首を振った。


「……俺の方こそ、喫茶店でのこと、ごめん。酷いこと言って、本当にすいませんでした」

「そんな、先輩が謝ることじゃ……」


 頭を下げた秋生に、長岡は慌てて否定する。だが秋生は首を振ってもう一度頭を下げた。


「長岡を酷い言葉で傷つけたのは事実だから。だから、ごめん」


 秋生の本心からの言葉であった。秋生が長岡に言いたかったのは、この言葉だったのだ。


 あの時、喫茶店で、秋生が長岡にストーカー被害を受けているということを知らない同僚が、秋生を不躾に茶化した。少々精神的に参っていた秋生はそれに苛立ったのだ。だから強い言葉でそれを否定してしまった。結果陰口のようになり、それが長岡を深く傷つけてしまったのだった。


「……本当に、私のことは良いんです」

「長岡……」


 長岡の言葉に、秋生は顔を上げる。長岡はくすりとほほ笑んだ。


「でも……謝れて、謝ってもらえて、良かったです。すっきりしました。これで、前に進めます」

「……ああ、そうだな」


 長岡の顔は晴れ晴れとしていた。秋生は入社したての時の彼女の顔を思い出した。

 初めて会った時の長岡は、緊張はしていたがそれでも今のように笑ったのだ。これからよろしくお願いします、と。

 きっともう、長岡は大丈夫だと、そう思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る