第2話 ある女の話

「彼女は普通の家に生まれ、普通に育ち、普通の学校に通って、普通の会社に就職した。

 そこで、普通に恋をした。会社の先輩だ。奥手な彼女にとって、初めての恋だった」

 

 激しい雨が降る中、男の声は良く聞こえた。秋生は知らず、唾を飲んだ。まるで傘の下だけ別の世界のようであった。


「先輩は優しくて、よく気にかけてくれて、引っ込み思案な彼女はよく先輩に助けられた。

 あまりにも優しいから、もしかしたら先輩も自分のことを、なんて夢想したりもした。

 本やネットで勉強して、アプローチなんかもしてみたりして、楽しい恋の日々を過ごしていた」


 弾むような声色で、男は話す。だが急に笑顔を引っ込めると、ある日、と続けた。秋生は震える指先で、傘を持ち直した。


「ある日、そんな日々は脆くも崩れ去った。


 会社の昼休み、彼女は会社近くの喫茶店で一人でランチを食べていた。そこに、先輩と数人の同僚が店に入ってきた。先輩たちは彼女に気づかず、近くの席に座って楽し気に話し始める。

 挨拶した方がいいだろうか。彼女がそわそわしながら様子を窺っていると、不意に、自分の名前が耳に入ってきた。一瞬呼ばれたのかと思ったが、そうではない。話題の中に自分が出たようであった。


 彼女はそっと、聞き耳を立てた」

 

『長岡?』

『そう。長岡って明らかにお前のこと好きだよな』

『だよな。なあ、お前はどう思ってるんだよ。付き合うの?』

 

「自分の話を振られているのは先輩のようだった。彼女はドキドキしながら先輩の言葉を待った。

 きっと先輩は、頷いてくれる。気さくに笑って、それもありだと思ってる、って」

 

『ねえよ。……だって、なんか怖いし』

 

「時が止まったかと思った。

 先輩は、ひでえな、なんて言う同僚たちと笑っている。彼女はそこに居られず、食事も残して喫茶店を足早に後にした」


 体が重い。足が進まない。

 とうとう立ち止まった秋生の傘から、男は一歩外に出た。雨に濡れる男はゆっくりと振り返り、秋生をその黒い瞳に映した。


「そして、会社に戻った彼女は屋上から飛び降りた」

「うぐっ」


 途端、秋生は強い吐き気に襲われる。立っていられず、えずきながら地面に膝をついた。傘がばしゃりと落ち、秋生は全身を雨に打たれながらこみ上げてきたものを吐き出した。

 ――ああ、土砂降りで良かった。

 雨で流されていく吐瀉物を見て、秋生はぼんやりと思う。

 その視界に、こつりと白杖が入ってきた。


「どうした、気分が悪いのか?」


 頭上からの声に、秋生はのろのろと顔を上げる。ぼたぼたと雨が顔にかかり、視界が悪い。

 でもその中でも、男の美しさはよくわかった。

 男は慈愛に満ちた優し気な顔をして、秋生の頬にそっと触れた。雨に打たれているせいか、男の手はひどく冷たい。

 男は秋生の顔を確かめるように両手で包み、唇に指を這わせてくすりと笑った。


「息が浅い……震えてるようだが?」


 ああ、気味が悪い。

 秋生は震える唇で声を出した。普通に喋ったつもりが、声がかすれる。


「……あんた、長岡の知り合いか……?」

「いや? 彼女には会ったこともない」

「じゃあ、何で……何で俺のこと、知ってるんだよ……!」


 秋生は叫ぶように吐き捨てる。

 男の話に出てきた先輩というのは、秋生のことだった。長岡も秋生の職場の後輩で、男の話通り、彼女は会社から飛び降りた。


 こんな話、秋生は誰にも話していない。会社の人間は話のタネに誰かに話すこともあるだろうが、聞いた相手がわざわざ秋生に接触を図るとは考えにくい。

 であれば当事者の長岡の知り合いぐらいしか考えられないが、そうでもないという。それなら、一体。


「別に君のことを知っていたわけじゃない。僕は聞いたことを話しただけだ。君の後ろにいる女性に」


 聞いた瞬間、全身に鳥肌が立った。秋生は勢いよく後ろを振り返ったが、そこには誰もいない。

 ほっとしたのと、気味の悪い不快感と、ぐるぐると渦巻く異様な何かに秋生は息を荒くする。まるで深く深く海に落ちていくような閉塞感に、溺れそうだと思った。


 男は秋生のその姿が見えているかのように、黒い瞳をうっそりと細めた。


「君のこと、助けてあげようか」

「……は、助ける……?」

「どうだろう、ちょうどそこが僕の住んでいるところなんだが、上がっていくだろう?」


 男が顔で示した先は狭い路地で、そのどんづまりに古い雑居ビルが見える。

 秋生は男についていくしかなかった。そうしなければ、帰り道にでもどこかのビルから飛び降りてしまいそうで。


「……わかった」


 ゆっくりと立ち上がる秋生に、男は殊更嬉しそうにほほ笑んだ。

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