三日月心霊相談所
新みのり
第1話 はじまりの雨
このところ不運続きだ。
自然と下がる視界の中、手に提げているビジネスバックから飛び出す履歴書が目に入る。秋生はまたため息を零しながら履歴書を適当に鞄の中に押し込んだ。
秋生は現在二十五歳。大学を卒業し、社会人三年目だ。三年目と言えば、本人的にもそろそろ会社や社会というものに慣れてきて、転職を考えるときでもある。
だが秋生は違った。学生の時に散々やった就職活動をまた一からしたいとも思わず、働いていた会社に転職したいとまで思う不満もなかった。
確かに周りの友人の中には新しさやスキルアップを求めて転職している奴らもいたが、秋生はよく頑張るなあ、ぐらいに思っていたのだ。まだ当分今の会社にお世話になる予定だった。
そう、予定だったのだ。
ある事情により、秋生は自ら退職することを余儀なくされた。
現在無職。会社を辞めて一か月、秋生はまだ新たな職を見つけられないでいた。
「何も門前払いしなくてもいいだろ……」
ぽつりと零した声は重く、また秋生にため息を吐かせた。
この一か月、色々な会社に履歴書を送ったり面接をしたりしたが、どれも不採用で終わっている。
先ほども面接の予定で会社に行ったのだが、面接官は秋生の顔を見るなり、悪いんだけどもう別の人採用しちゃったから、と、面接もせずに部屋から秋生を追い出したのだった。
「はあ……」
秋生は今日何度目かもわからないため息を吐く。
するとぽつりと、頭に何かが落ちてきた感触がした。立ち止まって空を見上げると、灰色の雲からぽつぽつと雨が降ってくる。すぐにでも本降りになりそうな雨脚に、秋生は慌てて鞄をまさぐった。
今日は天気予報をばっちり確認してきたのだ。午後から雨になりそうだったので、折り畳み傘を持ってきている。
「あった」
すぐに見つかった目当てのそれを鞄から取り出すと、開いて傘をさした。ほっとしたのも束の間、ざあざあと激しい雨が降ってくる。
スコールかな、すぐに止むといいけど。
そう思いながら、歩き出そうとしたときだった。こつんと、後ろから秋生の靴がつつかれたのだ。え、と思って振り返り、秋生の心臓はどきりと跳ねた。
秋生の後ろに人がいたのだ。白杖を持った人だった。秋生はその意味が分からない世間知らずではなかった。
「すいませんっ!」
飛ぶように道を譲りながら、秋生は謝った。
たった今気づいたが、秋生は歩道の点字ブロックの上で立ち止まって落ち込んだり傘を探したりしていたのだ。
自分の迷惑な行為に、秋生は恥ずかしさと申し訳なさで顔を真っ赤にさせてもう一度謝った。
「ほんと、すいません……あの、もう、退いたので、その、どうぞ。すいません……」
なんと言っていいか分からず、秋生はしどろもどろになりながら謝って、そして最後にようやく相手のことをしっかり見た。
びしょ濡れだった。傘をさしていないのだ。
秋生はちょっと迷って、おずおずと、傘を差し出した。
「あの、良ければ……傘、どうぞ」
相手の男の上に傘をさし、これ以上濡れないように配慮しながら秋生は言った。
すると、男は初めて秋生の方に顔を向けた。
今までは真っすぐ正面を向いていたが、初めて秋生の方を“見た”のだ。
「っ!」
秋生は恐ろしさに息を飲んだ。こちらを見ている男の眼が、吸い込まれるように真っ暗だったのだ。
何も眼の全てが黒いわけではない。ただ、黒目の部分が本当に真っ黒で、底の見えない恐怖を感じた。夜の海のような、その下に何かがいそうな、そんな、底知れなさ。
秋生が恐怖を感じているのを知っているのかどうか、男は目を閉じてにこりと微笑んだ。
「ありがとう。君は優しいな」
男の黒い髪からぽたぽたと雫が垂れ、白い肌にも水がつたう。
水も滴る、とは、正に彼のような男に言うのではないか、と秋生は思った。
だがそれゆえに、どこか現実感が薄い。形の良い鼻や唇、作り物のような綺麗な顔。今は閉じられているがあの黒い瞳。
秋生は身震いして、早く立ち去りたくなった。だが男は親し気に言葉を続ける。
「だけど、僕が君から傘を受け取れば、今度は君が濡れてしまうな」
「あ、いや、気にしないでください。すぐそこにコンビニがありますから、走って傘買いに行きます」
すぐそこにコンビニなどなかったが、秋生はそう言った。相手が遠慮しないようにとの嘘であったが、それでも男は首を振った。
「そんな、悪いよ」
「いえ、ご迷惑もかけてしまいましたし、そのお詫び、みたいな……」
「別に気にしなくていいが……ああ、それならこうしよう」
男は前方を指さした。雨のせいで視界が悪く、天気のせいでどんより暗い。
「僕の住んでるところがすぐ近くにあるんだ。紅茶くらいしか出せないが、寄って行かないか。それなら君も僕もこれ以上濡れずに済む。雨宿りしていくと良い」
結構です、と、言いたかったが、確かにこれ以上濡れたくはなかった。
まだまだ社会人三年目の秋生は、スーツも鞄も靴も、数を持っていない。しかも現在無職の就活中なので、買い足すことも減らすことも出来ないのだ。
それに何より、相手の男から断れないような圧を感じる。
知らない人の家に上がることに抵抗はあるが、秋生はほどなく頷いた。
「……わかりました。よろしくお願いします」
まあ、何も本当に家に上がることはない。玄関前まで男を送って、自分はそのまま帰ろう。傘があればそれほど濡れないだろうし。
そう考えての了承だったが、男はにこりと頷いた。
「じゃあ、行こうか」
男は白杖を使って歩き出す。秋生は男の隣で傘をさしながらついていく。
だがすぐに、男が歩きながらくつくつと笑いだした。秋生の不審そうな視線を感じたのか、男はすまないと謝る。
「君が緊張している気がして、つい」
「そんなことは……」
ない、とは言い切れなかった。実際にこの不思議な状態、不思議な男に少し緊張していた。
男は笑って、話をしようか、と言った。
「面白い話があるんだ。君の緊張がほぐれると良いけど」
「すいません……どんな話ですか?」
「――ある女の話だ」
男は前を向いたまま、可笑しそうに語りだした。
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