第10話

 英治は髭を剃り、あるマンションにやってきた。

 ここに来るのはもう半年ぶり……英治はマンション前のオートロックで恐る恐る部屋番号を押す。

「本人」ではなく、アシスタントさんが出た。


「あ、英治さん、ご無沙汰してます。今開けますね」


 そう言って集合玄関の自動ドアが開いた。

 英治は重い足取りで部屋に向かう。


――やっぱり帰ろうか、いやいや、頑張るって決めたじゃん。


 部屋の前に着き、英治は大きく深呼吸してインターフォンを押した。


 数秒待っただろうか。ドアが物凄い勢いで開き、中から人が飛び出してきた。


「英治ぃ!!!!来てくれて嬉しい!!!!もぉ、寂しかったんだからぁ!!」


 英治とそれほど背丈の変わらないその人物に凄い力で抱きしめられる。

 この細い体からどこからそんな力が出てくるのだろうか、英治はいつも不思議に思っていた。


「ブンちゃん、久しぶり。ごめんね、何度も連絡もらってたのに返信できなくて」


 英治は苦笑いしながら答えた。


 石橋文彦いしばしふみひこ――通称:ブンちゃんは英治のパーソナルトレーナーである。

 英治が体を鍛えるために20歳の時に通っていたジムのトレーナーだった。

 ネットで「英治ガリガリw」「薄すぎて魅力ない」と書かれたことを気にしたのだった。

 ブンちゃんの献身的なサポートによって、いわゆる「細マッチョ」になった英治は更なる人気を獲得するに至った。


 ブンちゃんの口癖は「英治は私の作品」だった。ダイヤの原石を芸術作品にまで磨き上げたという自負がある。

 2年前その功績をもとに独立し、このマンションの一室にパーソナルトレーニングジムを構えたのだ。


「ううん、いいの、英治も大変だったのよね」


 切れ長の目をさらに細めてブンちゃんは更に力を入れて英治を抱きしめた。


「もう無理してアイドルやらなくてもいいんじゃないの?英治ももう30歳なんだし」


 意外な言葉が返ってきて英治は面食らう。

「てめぇ、俺の芸術作品をめちゃくちゃにするとはどういうつもりだ、あぁ?」

――昔、英治が夏休みに北海道に行き、食い道楽を極めて3キロ太って戻ってきた時に言われた言葉だ。

 あの時は殺されるかと思った、英治は思い出して身震いした。


 今回はその時の比ではない。3回くらい殺されるつもりで英治は意を決してここに来たのだった。


「ありがと、ブンちゃん」


 ブンちゃんの優しい言葉に、英治はブンちゃんを疑ってしまった自分を恥じた。


「でも、応援してくれる人がいる、待っててくれてる人がいる、って分かったから。俺もうちょっと頑張りたい。アイドル続けたい。だから、トレーニングお願いします」

「そう……」


 その時、英治の背中で「ピッ」という機械音が聞こえた。

 英治を抱きしめていた腕をほどくと、ブンちゃんは不気味な笑顔でこう言った。

「録音しました♡」

 先ほどの音はボイスレコーダーの音だった。


「……ブンちゃん?」


 嫌な予感がした。


「これからとーってもアツーいレッスンが始まるから、英治に嫌われちゃうの怖かったの。でも英治にこうお願いされたら断るわけにはいかないわよね」


 ちょっと芝居がかった口調でブンちゃんは続けた。


「さ、早く着替えてきて、英治♡」


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 英治は更衣室でTシャツと短パン姿に着替えた。

 更衣室は全面鏡張りになっており、嫌でも自分が太ったことを意識させられる。

 ため息をつきながら更衣室を出ると、満面の笑みでブンちゃんが待機していた。


「英治♡」

 にっこり笑ったブンちゃんが近づいてきたと思ったら、いきなり下腹を鷲掴みにされた。

「痛い!?」

「ねぇ、英治、これなぁに?ここに私たちの子がいるのかなぁ?」

「え!?あ、うん、そうだね、俺たちの愛の結晶かな、アハ、アハハ……」

 英治は冗談に乗っかってその場をごまかそうとした。


「つまんねぇ冗談言ってんじゃねぇよ」


ごまかせるわけがなかった。ブンちゃんは舌打ちし、英治を睨みつけた。


「いや、言い出したのはブンちゃん……」

「あ?」

「いえ、何でもないです、食べ過ぎて付いた脂肪です。ごめんなさい……」

 英治の心は早くも折れかけていた。


「じゃ、まず体重計ろうか。」ブンちゃんは体組成計を指差した。

「え!?」

 体重計にはしばらく乗っていなかった。増えているのは明白なので、現実を直視出来なかったのだ。

「計らなきゃだめ?」英治はブンちゃんの目を見て甘えてみた。

「乗れ、早く」今のブンちゃんには全く通用しなかった。

 

 英治は観念して体組成計に恐る恐る乗った。左足、右足。足を乗せるたびに体組成計が音を立て、その音の大きさもまた自分が太ったことを意識させる。

 ピピーッと音が鳴り測定が終わった。


「えっと、80キロ……はちじゅっきろ!?」

 

 見たことのない数字に英治は卒倒しかけた。半年前――甘宮のクランクインの前だっただろうか、その時計ったときは70キロだったはずだ。10キロの増量だ。


「ま、そんな感じよね」

 ブンちゃんは驚く様子もなかった。英治の見た目から何となく察していたのだろう。


「ブンちゃん……」

「ん?なに、英治」

「10キロってどれくらいで落とせる?2週間?」

 英治は不安そうにブンちゃんを見た。

「アホか、死ぬ気かお前」

「……じゃあ1か月?」

「まぁ1か月で痩せられないことはないけど。その場合、英治はこの先一生ささみと卵とブロッコリーしか食べられないけどいい?」

「……え?」

「英治がだーい好きな甘いものもオムライスもエビフライもハンバーグもぜー―――んぶ我慢しないといけないけど大丈夫?」

「……無理です」

 

 想像しただけで辛すぎる。


「あのね、英治、ダイエットって一時的なものじゃないの。これから一生続けていかないといけないの。だから運動も食事も無理ない程度で改善することが大事なの」

「……はい」

「いつまでに痩せるってのは今の段階では意識しないで。私の言うとおりにすれば必ず痩せるから」

 ブンちゃんは自信満々にそう言った。

 英治は不安に思いつつも頷くしかなかった。


「じゃあ今日はランニングマシンでジョギングして終わりましょうか。20分で速度は時速7キロね」

「え、もう終わり?それに時速7キロ?前は10キロとかじゃなかったっけ」

「いいからやれ」

 またオラオラ系のブンちゃんが登場したので、英治はしぶしぶランニングマシンに乗った。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 10分が経過する。

「あ、あれ……?」

 英治は体の異変に気付いた。

 もうとっくに息が上がっているし足が重い。

「ぶ、ブンちゃん、ちょっと休憩してもいい……?」

「あっれー?英治、まだ10分しか経ってないよ?さっき余裕みたいなこと言ってなかった?」

 ブンちゃんは煽ってきた。

「ご、ごめんなさい……でも限界です……」

 英治は足を止めて、マシンを降りる。

 英治はそのままそばにあったヨガマットに倒れこんだ。肩で息をしていた。

 ブンちゃんは英治のギブアップを聞いて、それ見たことかと英治を見下ろす。


「英治、あの騒動以来全然運動してなかったでしょ?STARSの活動があったときは定期的にダンスの練習したりしてたんだろうけど」


 図星だった。英治は唇を噛んだ。


「運動不足で体も重くなったらそりゃジョギングも辛いわよ」

 ブンちゃんはクリアファイルを英治のお腹の上にポンっと置いた。


「まぁゆっくりやりましょ。それ食事のメニューね。毎食写真撮って私に送って。あと自宅でのトレーニングメニューも載せてるから」


 今朝電話してそこまで準備が済んでいる、さすが仕事が出来るブンちゃん。

「あ、りが、と……」

 英治はお礼もまともに言えないほど息が上がっていた。

「じゃあ今日は終わり!」ブンちゃんは大きく伸びをした。


「あ、英治、その髪やぼったいから次までに切ってきて。私のテンションが上がらない」


 そんな女王様発言を残して、その日のブンちゃんによるトレーニングは終了となった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る