影の街
霧嶌十四郎
影の街
影が街を行く。うつろに、おぼろに、輪郭はくっきりと、街をさまよっている。朝も夜も、晴れも雨も霧も、目を閉じてもゆらめいている。
暮らしやすい街だった。春になれば満開の桜通り、ひとつ路地を入れば小洒落たカフェ、激安スーパーから高級店、クリーニング屋、医者、薬局、あとインドカレー。都心の喧騒を少し離れた、上品で大人しい街だった。
僕は今日、この街を去る。
春の兆しに蕾も膨らむ早春のみぎり、役所で転出に係る手続きを済ませゆったりとした足取りで街を歩く。別段これから何か楽しいことが待っているわけではないのだが、浮き立つような心地だった。僕の存在が今、なんとなく宙ぶらりんだからかもしれない。
春に浮かれた羽虫の気分で見る街は、まるで知らない場所のようだった。
ここに本当に僕の人生があったのだろうか。この街で生きた僕は本当に僕だったのだろうか。昨日の僕は本当に今日の僕と同一だろうか。
昼下がりの温かな陽射しが降り注ぐ公園で、子どもたちが短い影を引き連れてキャアキャアとはしゃいでいる。きっと彼らも小さな影だけを残して、公園を去って行くのだろう。僕がこの街を去るように。
街には影がひしめいている。すれ違った小綺麗な女が尾を引くように残すシャネルの残り香、みたいに、誰かの影が僕をすり抜けて、風に揺らめいて、振り返ればもういない。
僕が去っても僕が残す影はこの街をさまよい続けるのだろう。たとえば僕たちが死に絶えても、僕たちの影は街を行くだろう。
ほんの少し宙に浮いた心地の僕も、明日になればちがう街を踏みしめて自分を実体だと信じ込むだろうし、昨日の僕は今日の僕だと確信するしかない。そして例えば仕事帰り夜桜を見上げた時に、この街に残した僕の影がこの街に生き続ける妄想を抱くのだ。いや影は僕かもしれないと自分自身を疑うのだ。
否が応にも僕たちの影は生き続ける。この街であるいはあの街でその街でどこかの街で。
影は増え続ける、つまり僕は増え続ける。
暮らしやすい街だった。それなりに気に入っている。僕はこの街を去る。だが僕の影は残る。
僕が変わっても影は変わらない。幼き日の僕の影はあのときのまま、取り壊された校舎の影の中で今でも友の影とじゃれあっている。
街を一周して駅前に戻ってきた。大きな旅行ケースを引きずった若者がキョロキョロしながら歩いてくる。僕にとって過去になるこの街は、彼にとって始まりの街なのだ。
そうだ、最後に。
僕はシェフが故郷に残した影に想いを馳せながら、インドカレーで腹を満たすことにした。
影が街を行く。夜明けも夜更けも薄暮にも、あらゆる影が輪郭だけくっきりと。
僕は街を去る。シャネルではなく、桂皮の香りを道連れに。
影の街 霧嶌十四郎 @kirishima14
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