第62話 届かぬ手
「そんなとこ行ったら、剃らなくても恐怖で禿げるわ……沙希?」
ヒナは、すぐに沙希の様子がおかしいことに気づいた。
「沙希——っ⁉︎」
沙希の顔を見て、ヒナは絶句した。沙希の瞳は、明らかに焦点が合っていなかった。
「沙希っ? しっかりして、沙希!」
ヒナがその肩を揺らしても、沙希は人形のように何の反応も示さなかった。
ヒナは素早く決断した。
「沙希、待ってて!」
沙希を壁にもたれかけさせて、ヒナは走り出した。
幸いにして目的の人物——ミサはすぐに捕まった。
「ヒナ? どうしたの、そんなにハアハア言って……」
ヒナは、息を切らしつつも告げた。
「沙希が……沙希がおかしいんです!」
◇ ◇ ◇
ミサはヒナに
「沙希!」
その肩を揺らすが、沙希は目を閉じたまま動かない。
呪術、という言葉がミサの脳裏を掠めた。瑞樹が不審な死を遂げている以上、関連を疑うなというほうが無理だろう。
ミサは人形のようにぐったりとしている沙希を抱え、【
中に大河やヒナがいることを【
「沙希!」
真っ先に
「ミサちゃん、沙希はどうなっているの⁉︎」
「わかりません……呼びかけても反応しない」
ミサは美穂に沙希を預けた。
「そんな……沙希、私よ! わかる⁉︎」
「沙希!」
「沙希殿」
美穂、大河、佐々木が次々と声をかけるが、それでも沙希は何の反応も示さなかった。
「何事ですか?」
騒ぎを聞きつけたのだろう。
二人は美穂の腕の中でぐったりしている沙希を見て、目を見開いた。しかし、取り乱しはしなかった。
皆、と大河が周囲を見回した。
「詳細はわからないが、緊急事態であることは明白だ。まず、佐々木と吉田は皆の動揺を
はっ、と敬礼をして、二人が出ていく。
「次に優作は、護衛隊に警戒体制と戦闘準備を整えさせろ。緊急演習だとでも言ってな」
「承知しました」
優作も部屋を出て行く。
「ヒナは敷地内全域を【索敵】で監視だ」
「は、はい。わかりました」
「そしてミサちゃん、原因の究明を頼めるか?」
はい、とミサは頷いた。
「沙希を【
「ああ」
大河が沙希から離れた。彼は視線を沙希から逸らした。
ミサは沙希のメイド服に手をかけ、素早く脱がした。露わになった胸に手を当て、無属性魔法【解析】を発動させる。
「……何、コレ……!」
ミサは絶句した。
「どうしたのっ?」
美穂が食い気味に聞いてくる。
ミサは、すぐに答えることはできなかった。
「ミサちゃんっ」
「——はっ」
美穂に身体を揺らされ、ミサは思考を取り戻した。
「……完全に、心が死んでいます。こんな絶望……今までに見たことがありません」
「ぜ、絶望っ? ど、どういうこと⁉︎」
美穂が口元に手を当てた。
「呪術によるものか?」
混乱している妻とは対照的に、大河の口調は冷静だ。
「……もう少し、【解析】を続けます」
ミサは深呼吸をして、自分の頬を叩いた。油断していたらミサのほうが引きずられかねない、それほどの絶望なのだ。
ミサは再び沙希の胸に手を当て、【解析】を使用した。
しかし、ミサには絶望以外、感じ取ることはできなかった。
「……くそっ!」
ミサは地面に拳を叩きつけた。
人の心が自然に壊れるはずない。ヒナとの会話中に突然今の状態になったということは、必ず魔法か呪術による干渉があったはずなのだ。
それなのに、何も見つけられない自分の無力さが恨めしかった。
「私にもっと【解析】が使えればっ……! ——あっ」
不意に、ミサの脳裏に一人の人間の顔が浮かんだ。
「そうだ、空也君! 彼なら何かわかるかもしれない!」
「そうか!」
大河が手を叩いた。しかし彼はすぐに顔を曇らせた。
「だが、周囲から見れば、現在の彼の立場は大分怪しい。その上で調査隊を抜けるとなれば——」
「関係ありません」
ミサは、大河の言葉を
「——彼なら、そう言うはずです」
そうだな、と大河が笑った。
「ミサちゃん、頼めるか?」
「全力で向かいます」
ミサは【身体強化】を発動させ、当主室の窓を開けた。窓枠に足をかける。
「必ず、空也君を連れてきます」
ミサは、窓から飛び降りた。
◇ ◇ ◇
ミサが九条家を出るころ、空也はすでに調査隊とともに辺境へ向けて出発していた。
「ねえ、どれくらいで辺境に着くの?」
「普通に辺境に行くだけでも三日はかかるけど、今回は連携に慣れておくために途中途中で依頼も受けるから、最悪一週間くらいはかかるかも」
うへえ、と舞衣がしかめっ面をした。
「一週間は長いなー。空也、何か暇つぶしない?」
「魔法や呪術に関するレポートならあります」
「あっ、見せて」
茜が食いついてくる。
「良いですよ。
空也は自分のカバンを開いた。
「うわ……あんたらマジ?」
舞衣がげんなりとした表情を浮かべる。空也はマジです、と返した。
空也はカバンを
しかし、空也はその手を止めた。【索敵】に、よく知る魔力が引っかかったからだ。
どうしたの、と茜が尋ねてくる。
「【光の女王】が来ます」
空也は、馬車の窓から後方を見た。
「光の女王が?」
茜が怪訝そうな声をあげる。
ミサは全力疾走しているようで、空也たちは馬車に乗っているというのに、その距離は縮まっていた。
「ちょっと会ってきて良いですか?」
空也は茜を見た。彼女が今回の第三隊のリーダーだからだ。
ええ、と茜が頷いた。
空也は【身体強化】を発動させた。馬車の窓から飛び降りて、ミサのいる方向へ駆け出す。
ものの一分ほどで、ミサの姿が見えた。
向こうも気づいたようだ。空也君、とミサの口が動いた。
彼女はさらに速度をあげ、凄まじい速さで空也の元までやってきた。
空也の前で、ミサは息切れを起こしながら両膝に手をついた。相当疲れているようだった。
「どうしたの?」
空也はその顔を覗き込んだ。
沙希が、とミサが呟いた。
「沙希?」
「沙希が大変なの! 早く九条家に行って!」
ミサは一息に叫んだ。
その危機迫る表情は、空也に決断させるには十分なものだった。
「ミサは調査隊に簡単に状況を説明しておいて!」
空也はミサの返事も待たずに、その場を駆け出した。
「当主室に行って!」
背中から、ミサの大声が聞こえた。
空也は片手を上げた。
九条家には十分ほどで到着した。
門番に通してもらうと、空也は再び走り出した。
屋敷内は思ったより動揺が走っていなかった。沙希に何かがあったことは伏せているのか、うまく対応したのだろう。
当主室の鍵は空いていた。空也はノックもせずに飛び込んだ。
「空也君!」
部屋にいたのは大河、美穂、ヒナ、そして美穂に抱えられた沙希だった。
「どういう状況ですか?」
空也は美穂の腕の中でピクリとも動かない沙希を見た。
「わからない。ただ、ミサちゃんの【解析】で、沙希の心が絶望に満たされていることだけはわかった」
「絶望っ? ……そうですか」
空也は【
空也は沙希に近づいた。大河に視線を送る。
彼が頷くのを確認して、空也は何にも覆い隠されていない沙希の胸に触れた。【解析】を発動させる。
「っ——!」
空也は息を呑んだ。
沙希の心を埋め尽くすその絶望は、今までに感じたことのないほど暗いものだった。気を抜けば空也が引きずり込まれそうだ。
しかし、だからと言って途中で投げ出すわけにはいかない。
空也は精神的負担を感じつつも、さらに【解析】を強化した。空也は一つの小さな違和感に気づいた。
それは、魔力の気配だった。
「これは……?」
「何か見つかったの⁉︎」
顔を近づけてくる美穂には答えず、空也はその違和感に意識を集中させた。
しかし、それが沙希のものではないという情報以外、空也は掴むことはできなかった。
空也は【解析】を解いた。
「何かわかった?」
肩口からミサが尋ねてくる。そのとき初めて、空也は彼女が戻ってきていたことに気がついた。
「誰かの魔力の気配は感じたけど、詳しいことはわからなかった」
空也が力なく首を振った、そのとき——、
突如として、沙希の背中が触れている床が紫に変色した。
否、変色したのではない。
空間が裂け、その裂け目から紫色の空が顔を覗かせていたのだ。
「——異界っ?」
空也たちの脳が異界を認識するころには、沙希はすでに異界に取り込まれていた。
「沙希っ⁉︎ いっ……!」
空也はその後を追って異界に飛び込もうとした。しかし、異界に入る直前、空也の身体は何らかの力によって弾き返された。
「キャッ⁉︎」
ミサが空也の隣で尻餅をつく。彼女もその力によって弾かれたのだろう。
「ちっ!」
空也は混乱しつつも再び異界に飛び込もうとするが、やはり侵入を阻まれた。空也の身体が後方へ飛ぶ。
「沙希!」
宙を舞いつつも、空也は手を伸ばした。
——そんな空也を
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