8話 新しい扉
大きな重厚な造りの扉の前で、フィリアはゆっくりと深呼吸した。
胸が緊張と喜びで大きく高鳴って、震えを抑えようと手に持っていたブーケに鼻を埋める。
このブーケは、朝早くから庭師のラスが心を込めて一生懸命作ってくれたもの。この国の国花であるクリームイエローの上品な薔薇をメインに、春の花々が彩りよくまとめられている。
この薔薇は、事件に協力した褒美として、そして今日の門出を祝う印にと、国王陛下から直々に贈られたものだ。
そこから立ち昇る香りに、フィリアはふとノートン家のお屋敷の庭を思い出した。
(あのお屋敷から、すべてははじまったんだわ。あの日、はじめてリガルドに出会ったあの時から)
もう一度その香りを胸いっぱいに吸い込むと、フィリアは足を一歩踏み出した。
(さあ、新しい扉を開けよう。この先に待っていてくれるリガルドと一緒に……)
扉の向こうから聞こえるかすかなざわめきと、ゆっくりと響き出すオルガンの音。それを耳にしながら、フィリアはゆっくりと開いていく扉の前に立った。
「あなたはこの者を永遠に慈しみ、いかなる時も愛し続けると誓いますか」
「はい。誓います」
祭壇の前で、誓いの言葉を互いに交わしながら、リガルドと向かい合う。
リガルドがデザインしてくれた純白のドレスの裾には濃藍色と灰銀色の幾重にも重ねたシフォンが内側からのぞき、首には星空を模したような濃藍色の宝石を散りばめた首飾りが輝く。それとお揃いの耳飾りもまた、天窓から差し込む日の光を反射してきらきらときらめいている。
そして頭から腰辺りまで覆う白いベールには、この日のためにお屋敷の皆に一針一針願いを込めて刺してもらった銀糸の刺繍が華やかに彩られている。
フィリアの全身を覆うこの衣装に、自分をこれまで愛し大切にしてくれた人たちの思いが存分に詰め込まれているようで、胸がいっぱいになる。
向かい合うリガルドの純白の衣装の胸ポケットにはフィリアの持つブーケと同じ薔薇と小花が飾られ、クラバットにはフィリアの目と髪の色とよく似た琥珀のピンが飾られている。
互いの色を纏いながら、フィリアはリガルドを見つめた。そしてまたリガルドも、熱を帯びた優しさの灯る目でフィリアをじっと慈しむように見つめていた。
「では、誓いのキスを」
神父の言葉で、フィリアはそっと目を閉じる。
近づく熱とかすかな吐息に、胸が壊れそうなほど高鳴る。そして二人の唇がそっと重なり、体が震えるほどの幸せに包まれたのだった。
そっと重ねられた唇が離れていくと同時に、聖堂に集まった者たちから一斉に歓声と拍手が沸き起こる。
居並ぶその大切な人たちの顔を、フィリアは花嫁らしい恥じらいと幸福に包まれた微笑みで見渡した。
「おめでとうございます! フィリアお嬢……じゃなくて、奥様! ずっとミリィは奥様と一緒におりますよ」
「おめでとうございます! 奥様。なんておきれいなんでしょ。私はもう胸がいっぱいで……」
ハンカチで顔を覆い喜びの涙にくれながら、ハンナが横にいるダレンを何か言ってやれとばかりにぐいと小突く。
「お……おう。その、まぁ良かったな。フィリア。……おめでとう、跳ねっ返り娘」
養父となったダレンは、どこか照れ臭そうに少しおもしろくなさそうな顔でそっぽを向いているが、その顔は赤い。それをハンナに小突かれている様子は、まるで母親に叱られた子どものようにも見えて思わず笑ってしまう。
感動に目を潤ませ頬を染めるミリィの横には、なぜかヨークの姿がある。どうにもその距離が近すぎるような気がするのは、勘繰り過ぎだろうか。
その時ふとその後ろに座る庭師のラスから、くぐもったような声が漏れ聞こえてきた。どうやら男泣きしているらしい。
驚いたダルトンがそれを必死になだめているようだ。
子どもを産んだばかりのアドリアも、夫とともに参列してくれている。赤ん坊の泣き声が聖堂の向こうから聞こえてくるところをみると、おそらく乳母が外で赤ん坊をあやしているのだろう。
どこを見渡してもここにあるのは笑顔、笑顔、笑顔だった。どの顔もようやくこの日を迎えられた喜びに輝いていた。
そしてそれはフィリアとリガルドも同じだった。
長い長い時間を経て、ようやく通じ合った思い。たくさんの迷いと苦い思い、それでも巡り会えた喜びにあふれてこの日を迎えていた。
この先にあるのは、二人で作り上げていく未来。きっとぶつかることも悩むこともあるだろう。時には間違う時だって。
けれど、二人一緒なら何度でも幸せを積み上げていける。
隣に立つリガルドの腕をきゅっと握る。そしてその横顔をそっと見上げ、これ以上ないほどの笑顔を浮かべた。リガルドの目もまたフィリアに優しく注がれている。
幸せだ、と思った。そしてこれが新しいはじまりなのだと、フィリアは晴れやかな思いで感じていた。
◇ ◇ ◇
潮の香りがする。
少ししょっぱくてどこか懐かしいような初めての匂いに、フィリアは胸を躍らせていた。
フィリアとリガルドは、いつかリガルドが言っていた、海の見える別荘に新婚旅行にきていた。
「私、海を見るのははじめてなの。すごく楽しみ。そう言えばお式では、陛下がまさか王宮の庭園にしか咲かない薔薇を贈ってくださって驚いたわ。皆、陛下からの贈り物だと知って驚いていたもの」
フィリアは海風ではためく帽子のつばを押さえて、リガルドに話しかける。
いつもよりラフな格好をしたリガルドが、どこかいたずらっ子のような表情を浮かべて微笑んだ。
「君には黙っていたけど、陛下からの贈り物は、実はもうひとつあるんだよ。選んで用意したのは私だけど、費用はすべて陛下からだよ。さぁ、こっちへ」
そう言って、リガルドはフィリアの目を片方の手で覆い隠すと、もう一方の手を引いてゆっくり歩いていく。
「フィリア、目を開けてごらん」
そう言われて、フィリアはそっと目を開けた。
その先に飛び込んできた光景に、フィリアは息をのんだ。
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