6話 願いのベール
朝からフィリアは大忙しだった。
店の掃除がようやく終わり、一息つくまもなく今度はお茶菓子の用意をはじめる。
ノートン家の屋敷を出て、もう二月になる。屋敷を出てしばらくは、ダレンと二人きりの静かな生活が少し寂しく感じていたけれど、やはり自分の家に戻ってきたという気がする。
もちろんリガルドとは時間を見つけては会っているけれど、半年後に控えた結婚式の準備に追われて忙しい日々だ。
「あとは、これをオーブンに入れて焼き上げれば出来上がりね。あ、そうそう! 裁縫箱の準備をしておかなくちゃ」
ばたばたとせわしなく動き回るフィリアを、やれやれといった表情を浮かべて、でもどこかおもしろがるような色を浮かべてダレンが眺める。
そして、店の扉が開き元気な声が響いた。
「こんにちは! フィリアお嬢様、来ましたよぉ!」
明るい声に、フィリアは微笑む。
「いらっしゃい! ミリィ。あ、それともうお嬢様じゃないわよ。私、ノートン家の令嬢なんかじゃないんだからね」
しっかりと間違いを指摘するフィリアに、ミリィはぺろりと舌を出した。
「へへっ、つい癖で。でもいいじゃないですかぁ。どうせあっという間にこう呼べなくなるんですし」
「どうして?」
「だって、すぐに奥様って呼ぶことになるんですもん。奥方様っていうのはちょっとおかたい感じだし、やっぱり奥様ですかね。それともフィリア奥様、の方が……」
ミリィの言わんとしている意味を理解して、フィリアは頬を赤らめた。
「そういえば、ドレスのデザインがそろそろ出来上がるみたいですよ。細かい打ち合わせに、フィリア様にもお屋敷にきていただかないと。リガルド様ったら、寝ずに考えてらっしゃいましたからね。きっと執着が滲み出たデザインですよ」
ミリィはそう言って何とも言えない表情を浮かべて、焼き上がったばかりのパイを口に運ぶ。
おいしそうに頬をゆるませるミリィに、フィリアはお茶を差し出しながら苦笑した。
「まさかリガルドがこんなにドレスにこだわるとは思わなかったわ。私が口を挟む隙もないくらい、一生懸命なんだもの。なんだかおかしくて」
「そりゃあ、長年の片思いが成就したんですもん。舞い上がりもしますよ。それに、舞い上がってらっしゃるのはフィリアお嬢様も、でしょう?」
からかうようにそう言われて、フィリアは顔を赤くした。
「にしても、ベールだけはご自分の手で仕上げたいなんてフィリア様らしいです。ハンナが張り切って夜なべしてましたよ。一針一針フィリアお嬢様がお幸せになれるよう願掛けするんだって」
その光景を想像して、フィリアは嬉しくなる。
きっと母が生きていたら、同じようにしてくれただろう。ハンナの優しさを思い、胸があたたかくなる。
「母親とか親戚とか、花嫁と近しい女性たちが花嫁の幸せを願って、ひと刺しひと刺し刺繍するっていう風習があるんですって」
フィリアは、そっとトルソーにかけてあったベールを取り上げる。そこにはすでにノートン家でお世話になった使用人の何人かが刺してくれた刺繍がある。
子どもの頃に、母からよく言われていたのだ。
いつかあなたが結婚する時には、自分がかつてしてもらったように、願掛けをしたベールを用意しましょうね、と。
大切に保管してあったはずのそのベールも、家をなくした時にどこかへいってしまったけれど、どうしても母の願いを叶えたかった。
モチーフには、小さな花や蔦などの植物だったり、縁起物の鳥などが使われることが多いらしい。
もちろん一番お世話になったミリィには、一番目立つ場所にお願いしてある。今日はその打ち合わせで店に来てもらったのだ。
「素敵ですよね。お母様の故郷のやり方なのかしら。私も結婚するときにはそうしようかな」
ミリィがうっとりとベールを眺めながら、感嘆の息をつく。
その瞬間、なぜかフィリアの脳裏にヨークの顔が浮かんだ。自分でもなぜ?と首を傾げる。
実は事件が落ち着いた後、何度かヨークは屋敷へと遊びに来ているらしい。リガルドに会いにきたのだというものの、いつもミリィを気にかけているようだと聞いていた。
(もしかしてヨーク様、ミリィのことを気に入ったのかしら。会ったことなんて事件が終わった後、劇場の外でわんわん泣いていた時くらいだけど。もしかしてその時に……?)
とはいえ、ミリィはヨークに何の関心もないようで、話題に上ることもない。好みのタイプではないのかもしれないが、まあ将来のことはわからないし。
そのうちミリィが誰かと良い仲になって結婚なんてことになったら、その時はぜひベールに刺繍させてほしいなと思うフィリアである。
「うん。じゃあ、その時には目いっぱい心を込めて、絶対にミリィが幸せになれるように願いを込めるわね」
フィリアの言葉にミリィがわぁん、と声を上げながら嬉しそうに飛びつく。
「ああ、もう! フィリアお嬢様ぁ。大好きですぅ!」
店の中に、ミリィの元気な話し声と笑顔があふれる。
フィリアは、そのあたたかな空気に心から幸せを感じながら、そっとベールをなでた。
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