6話 囮になる決意
それは、一刻ほど前のこと。
『ヨーク様の言い分も分かりますが、それではフィリア様を囮にしろとおっしゃっているようなものではありませんか!』
その夜、ヨークからまたも売買取引が直前で流れたという知らせが届き、ダルトンと協議していた時だった。
取引が二度に渡って直前に流れたということは、向こうが捕まる危険を察知していると考えるのが自然だ。そのため、ヨークは強硬策に出たいと持ちかけてきたのだ。
『策と言えるようなものですらありませんよ。フィリアお嬢様をわざと無防備な状態にさらして、イリスの動きを誘うなど。これが王命を受けた密偵のやることですか! ルノ公爵家も地に落ちましたな』
温厚なダルトンが、珍しく声を荒げる。
『ミリィは自分がフィリアに変装して囮になると言い張っておりますが、あの子は私にとってかわいい姪なのです。さすがにそれは許容したがく……。ですが、ミリィの気持ちも痛いほどよく分かるのです。いっそフィリア様にイリスが誘拐を企てているとお知らせしては……?』
『もちろんフィリアを囮になどするつもりはない。たとえ王命でも、それだけは聞けない。だが事実を話せば、あの子を守るのがさらに難しくなりかねない』
『それはもちろんでございますが……』
いよいよ切羽詰まった事態に、ダルトンと二人どうしたものかと頭を抱えていた。
その時だった、フィリアが姿を見せたのは。
そして今。リガルドとフィリアのどちらも譲る気のない張り詰めた空気の中で、見守るしかできないダルトンを含めた三者が、無音の部屋の中で言葉もなく立ち尽くしていた。
その均衡を破ったのは、フィリアだった。
「リガルド、聞いて」
くっと顔を上げ、凛とした目でリガルドをとらえる。
そのまっすぐな強さに気圧されるように、リガルドはひるんだ。
「私ね、今でも時々思い出すの。イリスの元にいた頃の、自分をどんどんなくしていくような、生きる力を奪われていくようなあの気持ち。あのままここにいたら自分が消えてしまうような気がしてた。でもそれがすごく悔しかった。でもあの頃の私はとても弱くて、イリスに抗うこともできなくて」
フィリアの握りしめた両手の関節が、白い。当時の感情を思い出してか、表情も固くこわばっている。
だが、フィリアはそれを振り払うように続ける。
「今も思い出すと、身体が冷たくなる。……でもね、もう怯えるのも逃げるのも、終わりにしたい。過去とちゃんと決別するために、直接イリスに言いたいの。もう絶対にあなたの言いなりになんかならないし怖くないって。そうじゃなきゃ先に進めない。もう何からも逃げたくないの。だからお願い、私にも協力させて」
リガルドは、フィリアの揺るぎない視線を前に何も言えずにいた。
今目の前にいるのは、ただ静かに泣いて耐えていた小さなフィリアではない。自分の強い意思で人生を進んでいこうとする、一人の美しい女性の姿だった。
その姿に、もう時は過ぎたのだとリガルドは悟る。
フィリアは先に進もうとしている。過去にしがみついて怯えるのではなく、凛とした目でしっかりと前を見て歩き出そうとしているのだ。
(それに比べて、自分はどうだ……。まだあの頃の過去に、幻想にとらわれたまま)
リガルドにとって家族は、幻想そのものだった。安心してありのままの自分でいられる、愛情にあふれたあたたかい場所。そんな場所に憧れ、心の中でずっと欲していた。
そしてそれは、フィリアとならば叶えられると思っていた。けれど、やっぱりそれはただの幻想だった。血のつながりも、家族の関係も、永遠に続くものなどないのだから。
「それに私は、一人だけぬくぬくと守られるのは嫌。私は、リガルドの隣に立っていたい。守られるだけじゃなくて、ちゃんと役に立ちたいの。それは、リガルドやダレン、それに屋敷の皆がいてくれるからそう思えるんだよ。だからもう、過去に向き合うのも先に進むのも怖くない」
そう言い切ったフィリアはとても凛として美しく、とても輝いて見えた。眩しいほどに。
「フィリア……」
迷いのないその表情をどこか遠くに感じ、切なくなると同時に嬉しくも思う。もう一人で泣いている小さな少女ではないのだと、この子は自分の力でこんなに強く成長したんだと、そう思った。
兄としてできることなどもう何もない。いや、初めからそんな必要はなかったのかもしれない。
リガルドは天を仰いだ。もう、残された道は分かっていた。
「どうしても気持ちは変わらないんだな?たとえ危険があっても、それでも行くんだな?」
フィリアがこくりと頷く。
リガルドは、深く重いため息をひとつ吐き出した。
「……分かった。だが決して無茶はするな。危険だと思ったら、事態がどうあれ身を守ることだけを優先すると約束してくれ。それが条件だ」
フィリアの顔が弾かれたようにこちらを向いた。まさか受け入れられるとは思っていなかったのだろう。
「……本当? 許してくれるの?」
「君の意思を尊重したい。それに……私も気づいたからな、どうすべきかを。私も君と、隣り合って進みたい。かごの中に閉じ込めるようなやり方じゃなくて。君の言う通りだ」
そう口にしてしまえば、むしろすっきりとした清々しい気分が広がる。
ずっと手の中で大事に守ってやれば、フィリアを幸せにできると思い込もうとしていた。兄で、家族でい続けるために。兄という大義名分があればずっとフィリアをそばにおいておけると思っていたから。
(そんなわけ、初めからなかったのにな。もう自分の気持ちを偽るのはやめよう。家族として、兄としてなんかじゃない。……ただ愛している。君だけをもうずっと愛してきたんだ、ただ一人の女性として)
今にも溢れ出しそうな思いが、リガルドの胸を焦がした。
ずっと愛していたことに今さらながら気づき、それを認めようとしなかった自分に呆れる。
兄などという心地よい立場にしがみついて、大切な存在を失うかもしれない恐れからずっと逃げてきたのだ。臆病者でなんと弱い男だろうと、情けなくもなる。
(でももうそんなのはやめる。ちゃんと向き合いたいんだ。自分の気持ちにも、君にも。だからこそ……)
「でもその前に、君に伝えておかなければならないことがある。君と私は……」
それを伝えようとするリガルドの喉が、緊張と不安とでごくり、と鳴った。
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