12話 夢の終わり


 数日後、フィリアが執務室の扉を叩いた。

 張り詰めた雰囲気を漂わせるその姿に、リガルドは嫌な予感がした。


「……どうした? フィリア」


 あの夜のことを思い出す。

 あの日劇場を出たあとのフィリアの様子は、少しおかしかった。行きの様子とは異なり、帰りの馬車の中でもどこか不自然に明るく振る舞っているようで。


 どこか不安を感じながらなんとか平静を装い、フィリアの言葉を待った。


「……あのね、私に縁談を用意してほしいの。お相手は、ノートン家の利につながるなら年が離れていてもお金持ちでなくても構わない。もちろん、できれば性格は穏やかで優しい方がいいけれど」


 突然の話に、一瞬頭が真っ白になった。


(なぜだ? どうして急に縁談など。確かにもう結婚していてもおかしくない年ではあるが、別に縁談を受けさせるために連れ戻したわけでは……)


 フィリアがこんなことを急に言い出したさまざまな可能性を、ぐるぐると考える。


(そもそも結婚したくないと言っていなかったか。だから男の振りなんてしていたのではなかっのか。一体どんな心境の変化が……?)


 リガルドは、激しく動揺していた。


 フィリアが誰かと結婚するなど、一度も想像したことがなかったのだ。フィリア自身も結婚する気がないと聞いて、どこかほっとしたような感情すら覚えていたのに。


「貴族なんだもの。リガルドだって近いうちに誰かと結婚するでしょう? なら早いうちに私はこのお屋敷を出たほうがいいと思うの。小姑付きなんてお相手の方も気詰まりだろうし。ならいっそ私もそろそろ結婚を、と思って」

「却下だ」


 思わず鋭い声が出た。


「え?」

「だから、それはできない」

「え、だって跡継ぎが必要だし、それにリガルドだって家族が欲しいでしょう?」


 フィリアは驚きに目を見張って、こちらを見ている。が、こればかりはどうしてもうなずけない。


 家族という存在は、リガルドにとってどこか作り物めいた響きを持っていた。少なくともフィリアが現れるまでは。家族のあたたかさを欲しているかといわれれば、それはそうだ。ごく当たり前の、あたたかな信じ合える絆に憧れていた。


(でもそれは、フィリアがいてくれさえすれば……。お前が今の私の家族じゃないか。兄なんだから……!)


 心の中で呟いた。けれど同時に、それは真実ではない偽りの絆だと思う自分がいる。血のつながりなど一滴もない、一時ともに暮らしただけのつながり。


(……家族では、ない。それは、そうだが……しかし)


 自分の指先がみるみる冷えていくのを感じた。


「しかし、そんなに急ぐ必要はないだろう。それに私は結婚する気はないし、後継はすでに縁戚の者を迎えるつもりでいる。だからこれからも、この屋敷で二人で暮らせばいい」

「二人で……?」

「そうだ。兄妹なのだからおかしくはないだろう。そうだな……、当主の座を譲り渡したら、海の見える別荘でのんびり釣りでもしながら暮らせばいい」


 フィリアはぽかんと口を開けて、こちらを見ている。


 もちろん兄妹で暮らす者がいないわけではないが、それは何か事情があってのことがほとんどだ。結婚したいと望む妹を引き止めてまでするものでないくらい、良くわかっている。が、言わずにはいられない。


「リガルド、どうしてそんな……。私は、でも」

「……いや。とにかくその話は却下、いや保留だ」


 机を挟んで向かい合う二人の間に、決して混じり合うことのない空気が流れた。


「……わかりました。またきます」


 そう言い残し、フィリアは立ち去った。

 

 急ぎで処理せねばならない書類を前に、紙の上をにらみつけたまま時間だけが過ぎていく。先ほどのフィリアの声だけがぐるぐると頭の中を駆け巡る。


「リガルド様、先ほどの書類はもう目を通していただけましたか。お済みでしたら、取り急ぎこちらも……」


 ノックの音にも気づかず机の上で頭を抱えるリガルドの姿に、ダルトンは目を丸くした。


「……お加減でも?」

「……やはり結婚を望むなら、送り出すべきだろうか」


 ぼそぼそとやっと聞き取れるくらいの声で、リガルドが尋ねる。


「……フィリア様、でございますか」


 主の狼狽ぷりに、ダルトンはついにこの時が来てしまったか、と息を吐き出した。


 先日の観劇のあと、フィリアの様子は明らかに出かける前とは様変わりしていた。

 出かける前は、まるで無垢な少女のようだったのが、戻られたときには大人の表情に変わっていたのだ。その思い詰めたような、けれどどこか凛とした決意を感じさせる表情に、ダルトンは悟った。


 フィリア様はもう、ご自分の気持ちに気づかれたのだ、と。そしてその上でどうすべきなのかを覚悟されたのだろう、と。


 こうなれば、ダルトンもただ見守っているなどできなかった。


「リガルド様。……本当に兄でいれば、永遠にフィリア様を繋ぎ止められるとお思いですか?」


 ダルトンの声に、リガルドは顔を上げた。


「遅かれ早かれ、こうなるだろうとは考えておりました。でもリガルド様ご自身の力で、気づいていただきたかったのですよ」

「何の話だ、ダルトン。何に気づけと……」


 ダルトンは書類を机の上に置いた。


「フィリア様は、妹ではありません。ご自身の力で人生を切り開いていける、美しさと聡明さを兼ね備えた一人の女性です」


 リガルドは、その厳しさの中に温かさをにじませた声にじっと耳を傾ける。


「もう偽りの絆などで、縛りつけられるものではないのですよ。いい加減お認めになられてはいかがですか。……それとも、今さらあの方を手放せるとでも?」

「それは、フィリアのことか?」

「……覚悟を決められることです。失いたくないのでしたら。でなければ、永遠に失いますよ」


 ダルトンの言葉に、リガルドは身じろぎもしない。目を大きく見開いて、空を見つめている。


「永遠に……フィリアを、失う? 覚悟……」


 ダルトンの目から見ても、フィリアは初めからリガルドのことを意識していた。

 それは恋い焦がれている、というほど強い思いではなかったかもしれないが、ほのかなというにはあまりにもひたむきな思いに見えた。


 そして一緒に過ごされる時間が増えれば増えるほど、女性としての輝きを増していった。誰かに恋をするには歳を重ねすぎたダルトンから見れば、それはまぶしすぎるほどでうらやましくもある。


 そしてそれは、リガルドもまた同じだった。血のつながった兄と妹であるというその偽りさえなければ、とっくに結ばれていたかもしれない二人。

 屋敷中が、それをやきもきしながら見守っていたのだが。


「あとはご自分でお考えください。リガルド様。……どうか失う恐れに負けて、間違った選択をされないよう願っておりますよ」


 ここから先は、リガルド自身でたどり着かなければ意味がない。


 ダルトンは口をつぐみ、恐ろしく有能だが限りなく不器用な若き主を残し、部屋をあとにするのだった。



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