9話 残り香の正体
「二幕が始まるまでしばらく休憩だ。飲み物をもらいにいこう」
そう言われて、フィリアは喉がカラカラなことに気がついた。
結ばれない身分違いの恋に焦がれる男女が、高らかに切ない恋心を歌い上げる。
時にささやくように、時に激しく。
その豪華絢爛な舞台に響き渡る二つの歌声に、フィリアは体が震えるような感動を覚えた。そして、気づけばすっかり身を乗り出して劇に見入っていた。
それを、優しさをにじませた穏やかな表情でリガルドがずっと見つめていたことにも気づかずに。
初めてみる歌劇は本当に素晴らしく、気がつけば舞台の上に広がる世界に惹き込まれていた。リガルドの姿を盗み見ることもすっかり忘れていたのだから、美しいものの吸引力は恐ろしい。
贅沢な衣装に身を包んだ男女たちの隙間を縫うように、リガルドに支えられながら進んでいく。
「あら、リガルド様ではありませんか。このような場にいらっしゃるなんて、お珍しいこと」
ふと背後から艶やかな声がして、フィリアは振り向いた。そして、ふわりと鼻先に漂う濃厚な甘い香りに気がつく。
振り向いた先にいたのは、ほっそりとしてそれでいてメリハリのある身体を赤いドレスに身を包んだ妖艶な美女だった。
片方にゆったりと下ろされた豊かな髪が豊満な胸をより一層目立たせていて、思わずその色気にあてられる。
艶っぽく色気を放ちながらリガルドを見つめる長いまつげに縁取られた大きな目と、濃厚な甘ったるい百合のような香り。この女性から漂うこの香りは、間違いなくあの晩にリガルドの身体に染みついていたものと同じだった。
男の手など借りなくても生き抜いていけそうな自立した大人の美しい女性だと、フィリアは思った。けれど同時にリガルドの隣に立つようなタイプではない、とも。それになんといっても。
(イリスに似てる……。この人をリガルドが好きになることはない気がする。ならこの人は……)
子どもの頃に感じた、あの生きる力をじわじわと奪われていくような恐怖と上から見下ろしてくるイリスの蛇のような目を思い出して、思わずフィリアはぎゅっと手を握りしめた。
「先日はお時間をちょうだいしまして、ありがとうございました。マダム。今日もとてもお美しい」
フィリアが知っている普段の声より、やや低い声が隣に立つリガルドから聞こえた。気のせいか、周囲の温度が低くなった気がする。
リガルドの言葉に、女性の深みのある赤い口紅が塗られた口元がゆっくりと弧を描いた。
「今夜は随分かわいらしい方をお連れね。……お友達かしら?」
それに答えることなく、リガルドはほんの少し口元を歪める。
それはリガルドを知らない人間から見たら、愛想笑いを浮かべたように見えたかもしれない。けれど、そこには明らかな警戒心が浮かんでいた。
両者の間にあるのは、恋人のような甘い雰囲気などではなく。むしろここに流れているのは、ピリピリとした互いの心の内を探り合うような冷たい空気だ。
マダムと呼ばれた女性がリガルドを見る視線も何かを見定めるようで、そこに恋人に向けるような甘さはどこにも感じられない。
(これは……もしかして)
てっきりあれほど身体に香水の香りが移るくらいだから、親密な間柄に違いないと思ったのだけれど。
(ダルトンの言った通り、本当に仕事の相手だったみたい。じゃあ恋人だと思ったのは私の勘違いだったのね。なんだ……)
フィリアは、拍子抜けしたような気持ちで小さく息を吐き出した。
もちろんこの女性とどんな仕事のやりとりを?と疑問に思わないわけではない。けれど仕事に関して、フィリアは無知である。貴族ともなれば色々な社交が必要になるに違いない。
(そっか……勘違い。そうなんだ……)
どこかほっとしている自分にフィリアは気がつく。
その時、フィリアの頭上でくすり、という小さな笑い声が聞こえた。そこにどこか馬鹿にするような蔑みのようなものが滲んでいるのを感じて、はっと顔をあげた。
胸の中がチリリ、と騒ぐ。
「……本当にかわいらしいお嬢さんね。まるで生まれたての無垢な雛のよう」
一体それはどういう意味だろうか。小さな子どもに見えるとでも言いたいのか。
女性から滲み出る嫌な感情に、フィリアは感情が波立つのを感じた。
(どうせ私は豊満な胸も色気もない、キャンディが似合いのお子様ですよ。でも妹なんだからいいじゃないの。恋人でも妻でもないんだから)
そう心の中で呟いた時、なぜかちくりと胸が痛んだ。
が次の瞬間、ふいにフィリアの腰がリガルドの側に引き寄せられて足元がふらついた。
「私の大切な妹なのですよ。ですが色々と事情がありまして、今はまだ正式にお披露目はしていないのです。ですので、どうぞご内密に」
(ふおっ? ちょ、ちょっと急に密着するのはやめっ……!)
腰に感じるリガルドの指先の感触。屋敷を出てからずっとエスコートされているとはいえ、突然強く腰を抱かれて思わずおかしな声がでるところだった。
驚いてリガルドを見上げると、布越しに伝わる指先の熱とは裏腹にその目にぞくりとするような冷たさが滲んでいるのに気づき、目を見開いた。
「……まぁ。随分と大事に囲ってらっしゃるようね。まるで親鳥のよう。……いいわ。秘密にしてあげる。その代わりぜひまた会いにいらしてね、約束よ」
一瞬その顔にどこか面白くなさそうな表情を浮かべたが、すぐに余裕のある笑みを貼り付けてマダムは嫣然と去っていった。
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