8話 夢の夜のはじまり

「世界一おきれいでかわいいですし、どこからみても完璧です! さ、自信を持っていってらっしゃいませ」


 ミリィによって頭のてっぺんから足の先まで念入りに時間をかけてこれでもかと飾り立てられたフィリアは、やりとげたとばかりに満足気な表情のミリィに背中を押され、階下で待つリガルドの元へと向かった。


 フィリアがまとっているのは、水色をベースにした張りのある生地でできたすっきりとしたデザインのドレスである。ところどころに繊細なレースが装飾され、裾にかけて深みのある濃紺へとグラデーションがかかっている。

 首元には、シックなチョーカーが輝き、銀糸が編み込まれた手袋はキラキラと光を弾く。


 生まれて初めて着た贅沢なドレスに緊張を滲ませて、うっかり裾を踏んづけてしまわないよう慎重に階段を下りていく。そして、ようやく視線を上げてリガルドの姿を目にした瞬間。


(うわわわわ……リガルドが素敵すぎる。絵画みたい)


 一瞬にして、ドレスのことなど頭から飛んでしまった。


 これぞまさに貴公子、と言わんばかりの男がそこにいた。

 普段はぞんざいに後ろで束ねているだけの髪はシルクの黒紐で結ばれ、額にかかった艶やかな黒髪が色っぽい。首元にはシックな濃灰色のクラバット、濃い目の臙脂のシャツの上には黒の丈の長いジャケットを羽織っている。すらりとした引き締まった長身が、いつも以上に目を引く。


(これ、絶対注目の的でしょ。どうしよう、この隣に自分が立つなんて遠慮したい! 今すぐ回れ右したい!)


 あまりの完成度の高さに思わず意識を飛ばすフィリアと、そのフィリアを呆然と見つめ立ち尽くすだけのリガルド。


 そんな二人のぎこちない空気を破るかのように、そばに控えていたダルトンがごほんっ、と咳払いをする。

 それにはっとしたリガルドが、ようやく口を開いた。

 

「……っとても、その。良く似合っている。……言葉にならないくらい、きれいだ」


 なんだか屋敷にきたばかりの頃を彷彿とさせる、ぎこちなさである。


「ええっと、……ありがとうございます。リガルドも……とてもかっこいいです」


 嬉しいけれど、非常にくすぐったい。フィリアは必死に、これは兄、これは兄、と呪文のように心の中で繰り返す。


「では、行こうか。……その、手を」

「はははは、はい!」


 ぎくしゃくと絶妙な距離間をキープしたまま、馬車に乗り込む二人をダルトンとミリィがぬるい目で見送る。


「では、頼んだぞ。ミリィ」


 ダルトンがミリィにちらと目配せをする。それに澄ました顔で応え、ミリィは御者台へ乗り込んだ。


 狭い馬車の中、斜め向かいに座るリガルドを正視することもできず、そのリガルドはと言えばずっと外を眺めているけれどその耳は真っ赤で。

 結局会話らしい会話もなく、馬車は夜の町をひた走る。


 馬車を降りたときにはすでにフィリアの精神力は底を尽き、手袋をはめた手はじっとりと汗ばんでいた。




 ◇ ◇ ◇



 劇場は、フィリアの想像をはるかに超える美しさだった。 

 天井から吊り下げられたシャンデリアと、美しくドレープを描くカーテン。顔が映りこみそうなくらい美しく磨き上げられた床に光が反射して、どこもかしこも眩しい。


 慣れない踵の高い靴を慎重に進めながら、フィリアはきらびやかな世界に胸を弾ませた。客たちのドレスもあちこちに飾られた調度品も華やかで美しく、つい足を止めて見とれてしまう。


「大丈夫か?」


 先ほどから言葉を失って周りをきょろきょろと見渡してばかりのフィリアを気遣うように、リガルドが声をかけた。


「こんなに華やかな場所にきたのは生まれて初めてで……。目がチカチカします」


 頭の上で、ぷっと小さく吹き出す声が聞こえる。

 我ながら子どもっぽい感想だとは思うけれど、何も笑わなくてもと思わず頬を膨らませた。


「さぁ、私たちの席は上のボックスだよ。あまり人目につきたくないんだ。……行こう」


 そう促されて、二階席へと続く真っ赤な分厚い絨毯が敷きつめられた階段をゆっくりと上がる。


 うっかりドレスの裾でも踏んで転んだりしたら、ノートン家の当主であるリガルドに恥をかかせてしまう。が、どうにも意識がある一点に集中して足元が危うくなってしまう。


(手っ……リガルドの手がっ! ……腰にっ)


 さりげなく腰に回されたリガルドの手から、ドレスの生地越しに熱が伝わる。階段を転ばずに昇れるようエスコートしてくれているのだとは分かっていても、どうしてもそこに意識が集中してしまう。


 そして、ますます足元がもつれそうでもはや意識が飛びそうなフィリアの様子に気づかないリガルドは、さらに指に力を込める。


(あ、もうなんか。今変な声が出た……。限界かも)

 

「ちゃんと支えているから、足元ではなく視線を上げて。私の顔を見るといい」


 それができたらこんな苦労はしないのだ、と叫びたい気持ちをこらえて必死に足を動かす。


 ようやく瀕死の状態で上りきり、二人分の席が並んで配置された空間へと入る。そこは、舞台はよく見えるのに他の客の視界からは遮られた作りになっていた。これならば人の目線を気にすることなく存分に舞台を満喫できそうだ、と安堵する。


(それに、この暗さならこっちも堪能できそうだし)


 フィリアは、ちらりと隣に座るリガルドへと視線を移す。

 ずっとリガルドの正装を見るのを楽しみにしてきたのに、馬車の中や明るいロビーではさすがにまじまじと観察できず悔しい思いをしていたのだ。


(この暗さなら、リガルドからは私の顔ははっきり見えないだろうし。せっかくの機会なんだし、存分に堪能しなきゃね)


 ボックス席は、まるで外の世界から隔絶されているようでちょっぴり秘密めいていて胸が騒ぐ。暗めの照明と衣擦れの音に包まれているような空間が、心地よい。


 生まれて初めての素晴らしい夜が、始まろうとしていた。




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