5話 胸躍るお誘い
フィリアは瓶からキャンディを一粒取り出して口に放り込み、にっこりと笑みを浮かべた。
口の中で溶けだす甘酸っぱい味と、ころころと舌の上で転がる感触を楽しむ。
思い出すのは、数日前の夜のこと。
香水の一件でなぜかぎくしゃくしていた関係が、リガルドが夜に部屋を訪ねてきてくれたことできれいさっぱり解消したのだ。
(ああ、すっきりして良かった! それにしてもあのもやもやは一体なんだったのかな。まさかリガルドに会えなくて寂しかった、なんてね)
なぜあんなに香水にも苛ついていたのかはいまだに謎である。でもああして二人で向かい合っていた時、ふと昔の自分に戻った気がしたのだ。誰も自分を見ていない、亡霊のようなあの孤独な暮らしの中で、リガルドだけが自分を気にとめて優しく接してくれたこと。あの時の気持ちがよみがえって、もやもやしていたことがどうでもいいことのように思えたのだ。
(リガルドが幸せなら、それでいい。私はそのためにできることをするし、応援もするし。兄だとか兄じゃないとか、そんなことはどうでもいい。リガルドが私にとって大切な人であることに、変わりはないんだし)
そうに思えることも、そう願える相手がそばにいてくれることも嬉しかった。
(それで十分よね。それに、観劇にも連れて行ってくれるって言ってたし)
あの翌日、今王都で評判の歌劇を観に行かないかとリガルドが誘ってくれたのだ。時間的に湖にはまだいけないけれど、近場で気分転換でも行かないか、って。
そのお誘いに、フィリアは胸を躍らせた。本格的な歌劇を観るなんて人生で初めての経験だし、この先もそんな機会はそうないだろう。ならばと、大いに楽しむつもりでいる。
ミリィも今からどのドレスにしようか、どんなメイクにしようかと楽しそうだ。
ここのところ屋敷がピリピリしているように感じたのも、もしかしたら自分の不安定さのせいだったのかもしれない。
(リガルドには悪いことしちゃったな。つんけんしたりして。リガルドが幸せならそれが一番なのに。でもできたら、美人で優しい女性だったらいいなぁ。このお屋敷からは出ていくけど、家族としてたまには会うこともあるだろうし)
家族のあたたかさに飢えているのは、自分もリガルドもきっと一緒だ。失ってしまってもうその手には感じられないぬくもりを、ずっと焦がれている。
だからこそ、リガルドには幸せな結婚をしてほしい。心の底から愛する人と結ばれて、子どもをもうけて、あたたかな家族を作ってほしい。
(リガルドは優しい人だから、きっと幸せになれるはず。私の自慢の兄なんだから)
きっとあんなにイライラしていたのは、もしかしたらちょっぴり嫉妬していたのかもしれない。他にあんなふうになる理由なんて思い当たらないし。
自分の一連の行動を振り返り、フィリアは顔を赤らめた。
(兄弟姉妹で嫉妬するなんてよく聞く話だものね。子どもみたいで恥ずかしい……。お詫びにお菓子でも作って、差し入れようかな。相当疲れが溜まってるだろうし)
フィリアはあれこれレシピを思い浮かべながら、ご機嫌な様子で屋敷を闊歩するのだった。
◇ ◇ ◇
ミリィが張り切っている。
「ふっふっふっふっ……。いつもはせいぜいちょっぴり華やかなワンピースくらいですからね。こんなにフィリアお嬢様を飾り立てる機会なんて、なかなかありませんから。このミリィ、思う存分腕を奮わせていただきますよ」
どこか振り切れてしまっている感じで、なんだかミリィがこわい。どことなく手つきも怪しい。
くふくふと気味の悪い笑い声を漏らしながら、クローゼットからいくつものドレスを引っ張り出しては、たくさんの小物をああでもないこうでもないと言いながら組み合わせている。
(にしても、こうやって並べてみてみると本当にどれにもさりげなくリガルドの色が入ってる……。妹に自分の目の色を身につけさせるってどうなの? リガルドの愛って、ちょっと重いわよね。妹にでさえこうなんだから、妻になる人は大変そう……)
思わず未来のリガルドの伴侶に、同情してしまうフィリアである。
フィリアの目の色は少し灰色がかった薄茶色だから、リガルドの目の色との組み合わせは決して悪くない。甘すぎる格好が苦手な自分にとっても、ちょっとシックな印象になって気に入ってはいる。それに、一緒に連れだって出かけるのだから、相手の色を身に着けるのはマナーとしてありなのかもしれない。
が、ちょっとやり過ぎな気もする。
(恋人じゃなく兄妹、なんだけどなぁ。よっぽど過保護なのね、リガルドって)
複雑な、でもどこかちょっぴりは嬉しいようなむず痒い気分で、観劇当日に思いをはせるフィリアである。
でも実のところ一番楽しみにしているのは、リガルドの正装姿だったりする。町中で貴族が着飾ってどこかへお出かけする様子を見たことがあるけれど、リガルドが存分に着飾ったらその美しさに皆が振り返るに違いない。普段の格好だって十分キリリとして素敵だけれど、さらに華やかに飾られた正装ともなれば相当見栄えがするだろう。
思わず想像してしまい、にんまりと笑みを浮かべてしまう。
(いや、兄だけどね。兄だからじっくり堪能しても許される、というね。これは美形の兄を持つ妹の特権よね、うん)
少し前まで顔を直視することすら悲鳴を上げていたのが嘘のようだ。人は慣れるとは良く言ったものである。美しいものはじっくり愛でたいと思うのが、人の性だ。せっかくのこんな機会を逃すわけにはいかない。
「ミリィ、私すごく楽しみ」
思わず子どものような口ぶりで、ミリィに笑いかける。ミリィもまた、フィリアのそんな無邪気な様子に嬉しそうに顔をほころばせるのだった。
この時のフィリアは、初めての二人きりの外出があんな結果になるなど思いもせず、ただ期待と少しの不安に胸を高鳴らせていた。
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