4話 かくも二人はすれ違う

 突然伸ばされたリガルドの手に、フィリアは激しくうろたえていた。


(今のは何? び、びっくりした……! 指先がほっぺたに、一瞬だけどぴたって……!)


 一瞬とは言えリガルドの熱が伝わった頬を両手で覆い、悶絶する。


「すっ、すまない。つい、いや他意はない。なんとなく……」


 リガルドもいつになく動揺しているのか、もごもごと口ごもっている。


(落ち着け、落ち着け……私。これは兄、なんだから。昔も頭なでてくれたりしたじゃない! そうよ、キャンディを口に入れてくれたことだって……)


 先ほどもらったばかりのキャンディを思い出し、なんとか気持ちを落ち着けようと懐かしい記憶を思い出す。


(まあ、子どもの時だって肌に触れたことなんて一度もないんだけど……。これはきっと不可抗力よね。頭をなでようと思ってうっかり、みたいに。うん、きっとそうよ)


 おそらく昔のように頭をなでようとして、うっかり目測を誤って頬に触れてしまったに違いない。スキンシップ過多なリガルドのことだから、動物をなでるような感覚でうっかり気軽に触れてしまったに違いないのだ。 

 あまりに何気ない行動だったから、あんなにリガルドも動揺しているのだろうし。


 それならこんなに自分が意識してしまってはおかしい。そう必死に言い聞かせて、呼吸を整えた。


「い、いいんです……。昔も、よく頭をなでたりしてくれましたもんね。ほら、このキャンディだってよく口に入れてくれたし」


 ようやく視線を上げてみれば、リガルドの顔も真っ赤だった。


(あああぁ! 目の毒、目の毒だってば。……本当に落ち着いて、落ち着け、私!)


 静まり返った夜の廊下で、真っ赤な顔をして向き合う兄と妹の姿ははたから見ればさぞかし異様だろう。


「ああ。そう。確かに……そうだったな」


 リガルドもまた必死に平静を装っているのか、いまだ口元を手で覆ったままうんうん、とうなずいている。

 そして、間に落ちる沈黙。


 けれど、いたたまれない空気感の中でフィリアの中にどこかおかしさがこみ上げてきた。


(私たちって本当にいつまでたっても……)


 なんだかすごく滑稽だと思った。やっぱり私たちは相変わらずぎこちなくて、兄と妹でいることにちっとも慣れてなんてなくて。でもそれがなんだかくすぐったくて、嬉しくなった。

 いきなり血のつながった家族ですよ、と言われて、はいそうですかと急に仲良くなれるわけじゃない。昔も会話なんてほとんどなくて、ちっとも兄妹らしくなんてなかった。でもどこか、心の中で通じ合う気持ちはあったような気がする。

 それはきっと、私たちが二人とも家族のぬくもりに飢えていたからだと思う。それがきっと今も昔も自分たちを結び付けているのだろう。

 それは少し切なくて、フィリアの心をあたたかくした。


(実感はないけど、リガルドがこの先もずっと家族でいてくれるなら嬉しいかな。血のつながりがどうとかいうことではないけど)


 この屋敷にきてはじめて、素直にそう思えた。

 血のつながりがどうとか、互いのことをよく知っているかどうかは関係なく、家族と呼べる存在がこの世にいてくれるなら、それはきっとこのどうしようもない寂しさと心細さを埋めてくれるに違いない。きっとそれは幸せなのだと。

 そう思った時、フィリアの中からもやもやとした黒い感情がすっと消えていった。


「……私、応援するね。リガルドが大切に想う人と幸せになれるように」


 あの香水の香りを一瞬思い出してほんの少し胸がざわついたけれど、それを振り払う。


「……は? フィリア、一体何の話を……?」

「あ、でも結婚が決まったらその時は事前にちゃんと教えてね。その時はここをすぐに出ていくから。小姑がいるお屋敷じゃお相手も気詰まりだろうし。別々に暮らして、時々会ったりすればいいんだし。私も、リガルドの幸せの邪魔はしたくないから」


 唐突な言葉に、リガルドは虚を突かれたように口をぽかんと開けてこちらを見ている。

 恋人の存在を言い当てられて、恥ずかしがっているのだろうか。


「あんな香りが似合うんだもの。きっと大人っぽくてきれいな人なんだろうね。そのうち紹介してくれたら嬉しいな。妹としてちゃんと挨拶もしたいし」


 フィリアは、くすりと笑いながら続けた。


「反対なんかしないから安心してね。私はリガルドの選んだ人を信じるし、私のことなど気にせずさっさと幸せになってくれたらいいなって思ってる。ノートン家の跡継ぎのことを考えても、結婚は早い方がいいもんね」

「……うん? 結婚? ……出ていく?」


 気のせいか、リガルドの目が激しく泳いでいる。


 それとは対照的に、フィリアの気持ちはすっきりしていた。


(こんなに優しいんだもの。誰よりも幸せになってもらわなくちゃね。だって兄妹だもの。いつかお互いに結婚して自立していくのが普通だもんね)


 今となれば、いったいどうしてあんなにあの香水に気を病んでいたのか不思議でならない。慣れない環境の変化に、少し参っていたのだろうか。

 それでも色々と抱えていたもやもやが解消したことで、フィリアは満足げにうなずいた。


 その様子を、リガルドは呆然と冷や汗を滝のように背中に流しながら見つめていた。




 ◇ ◇ ◇ 



 うっかり衝動に飲み込まれてフィリアの頬に触れてしまったリガルドは、なぜかあらぬ方向に話が向いたことに青ざめていた。

 なぜフィリアが突然屋敷を出ていく話をしているのか。結婚とは何の話だ。小姑とは一体誰の事だ? と次々に疑問が頭に浮かんでは消えていく。


 リガルドは大いに後悔していた。衝動に負けてあんなことをしてしまった自分を。


 過去の記憶が脳裏によみがえった時、ふと思ってしまったのだ。眩しいくらいに美しく大人の女性に成長したその身体を、抱きしめたいと。


(っだめだ。何を考えているんだ。フィリアは妹なんだぞ……いや、血はつながっていはいないがそれでも。少なくともフィリアにとっては実の兄なんだから、こんなことを考えては……)


 自分にそう言い聞かせて脳内で必死にあらがうも、突如湧き上がったその激情にリガルドはつい手を伸ばしてしまった。その結果が、これだ。

 フィリアは大切に思う人、と言っていた。フィリア以外にそんな人間いるはずもない。選ぶとか言っていたが、使用人の面接か何かの話だろうか。そんな予定はしばらくないが。それに、小姑とは誰の事だ?


(……俺の幸せ? 幸せというなら、まさに今こうしている時間こそ……)


 噛み合わない会話に、二人はなんともいえない距離間を保ちつつ、夜の廊下で向き合ったまま立ち尽くしていた。




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