3話 香水の余波と兄の衝動

 フィリアは今日も一人、広すぎるテーブルで黙々と朝食を食べていた。


 フィリアを気遣ってか、ミリィが給仕をしながらおしゃべりに付き合ってくれる。だから寂しいなんて、思うわけはないのだ。むしろ今日はどんな会話を振ろうか、などと考えずに済むし。


(これが普通なのよ。だって兄妹だもの。別に仲の悪い関係を目指す必要なんてないけど、ベタベタする必要もないんだし)


 なのに、皿の上のレタスを小さく切り分けながら気づけば小さなため息をついていた。


「フィリアお嬢様……。食欲でも?」


 心配そうな顔でミリィがこちらをうかがっているのに気づき、慌てて口にレタスを運ぶ。

 実際のところ、気持ちは目下だだ下がり中だ。


(なんでこんなもやもやするの。リガルドにそういう仲の女性がいたって、別に構わないじゃない。だって、兄なんだし)


 香水の香りがあれほど強く胸元からするということは、つまりはそういうことだろう。しなだれかかった、とか抱きしめたとか。そんな光景をまた思い浮かべてしまい、フィリアは眉をひそめた。


 なぜだろう。なぜかおもしろくない。リガルドがいずれこの屋敷の後継を残すために結婚することは当たり前だし、むしろ妹として喜ぶべきことなのに。


(それにそのほうがここを出ていく理由ができるんだし。相手の人だって小姑と一緒に暮らしたいわけないし。お相手は、きっとあの香水が似合う大人美人なのよ。うん)


 気がつけば、こんなことをぐるぐると考えている。あまりに頭から離れないものだから、ダルトンにもどんなお相手と会っていたのかと聞いてもみた。「ただのお仕事相手でございます」との回答だったけれど。


 あれ以降もリガルドは忙しそうで、話す暇もない。けれどたまに屋敷の中で見かけると、こちらをちらちらと伺うように見つめてくる。きっとあの夜の自分の行動が挙動不審だったのを、気にしているのだろう。

 満足に話す時間も取れないことが、余計に気持ちをもやもやとさせていた。いっそのこと本人に直接「お付き合いしている人と会ってたの?」とでも聞ければ、すっきりするのだろうか。それもなんだか嫌だ。


 相変わらず屋敷の雰囲気も、ピリピリしたままだ。


 フィリアは、いつまでも記憶から消えてくれないあの香りに苛立ちを隠せないまま、もやもやとささくれ立つ感情を持て余すのだった。




◇ ◇ ◇ 



 リガルドもまた、悶々としていた。


 最近ようやくフィリアとの間にあった垣根がなくなった気がしていたのに、なぜかあの晩からフィリアの態度がよそよそしい。


(何があった……? あの日は挨拶もせずに朝食にも顔を出さなかったせいか。それとも、帰りが遅すぎた? そんなに汗臭かったのか?)


 あれこれ考えては見るものの、距離を置かれる理由が皆目見当がつかない。やっとここにきて、まともな会話が成立するようになったというのに。


 そして今夜もまた深夜近くに帰宅したリガルドは、ぐったりと体を椅子に沈み込ませていた。こんな日は、ひと目でもいいからフィリアの顔が見たい。声を聞きたい。そうすれば、疲れだって吹き飛ぶ気がする。


(もう眠ってしまっているだろうな……。それでも部屋の近くに様子を伺いに行くくらいは許されるだろうか)


 一度そう思ってしまえばもう我慢することなどできず、気づけばあとでミリィにでも渡してもらおうと思っていた袋を手にしてフィリアの部屋の前まで来ていた。

 もちろんこんな時間に、ノックなどできるわけもない。しかも相手は妹とはいえ実際は赤の他人、年頃の女性なのだ。それでもここにフィリアがいると思うと、心があたたかくなる。


 そっと物音を立てないようにドアのノブに小さな袋をかけ、扉に触れた。

 そして、静かに立ち去ろうとしたその時。


「……誰? そこに誰かいるの……?」


 フィリアの声がした。

 迷った挙句、リガルドは扉の前に立った。


「……遅くにすまない。その……渡したいものがあって。いや、起こすつもりではなかっ……」


 言い終わらないうちに、扉が開いてフィリアが姿を見せた。無防備な寝間着姿で。


 身体の線が透けて見えるほど薄い寝間着を直視してしまい、思わずさっと顔を背けて口元を覆う。その理由にフィリアも気がついたのか、慌てて部屋の中へ引っ込むと肩掛けをぐるぐるに巻き付けて現れた。


「リガルド……あの、おかえりなさい」

「ああ、ただいま。あぁ、そうだ。……これを」


 ぎこちない態度でそれを差し出すと、フィリアはおずおずと受け取って中を覗き込んだ。


「……キャンディ?」


 調査の途中で、昔よくフィリアの口に放り込んでやったキャンディの瓶を見かけてたまらなく会いたくなった。こんなものはただの飴だ、親が子どもに気軽に買ってやるくらいの。なのにこんなものひとつ手渡すのに、びくついている自分が情けない。


「仕事の合間にみかけたから……。つい懐かしくなって」

「あ、ありがとう……」


 フィリアが少しきごちない動きでそれを受け取る。その態度からは明らかによそよそしさが感じられて、リガルドは胸が痛くなる。

 そして色とりどりのキャンディが詰まったかわいらしい瓶を手にしたフィリアの姿が、過去の小さく今にも折れそうなほど頼りなげだった頃の姿と重なり、胸の奥から何とも言えない感情が一気に沸き上がった。


 ふと気がつくと無意識に手が伸びて、そのやわらかな頬に触れていた。


 そのやわらかなあたたかい感触に、意識が過去へと向かう。守ってやりたくて、でも守り切ることができなかった存在。それがこんな近くに触れられるほどの距離にいるのだと思うと、心が震えた。

 だから気がつかなかったのだ。フィリアが顔を真っ赤にして固まっていることに。


「……っ。リガ、ルドッ」


 上がった小さな悲鳴のような声に、はっとして手を引っ込めた。


「……っと、すまない! ついなんとなく手が……」


(いったい何を……! つい、いや本当に無意識に、手が!)


 動揺を隠しきれずにじりじりと後ずさった背中に廊下に飾ってある花瓶がぶつかり、慌てて押さえる。自分でも思いもよらない無意識の行動に、動揺が止まらない。

 恐る恐る様子を伺えば、フィリアは真っ赤に染めた顔を両手で覆い下を向いてしまっている。


(どどどど、どうしよう。本当にいったい何を……)


 突然沸き上がった無意識の衝動に、暴走するリガルドであった。



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