2話 香水の残り香
「……フィリア、こんな夜更けに起き出してどうした? 眠れないのか」
立ちすくむフィリアを視界の端にとらえたリガルドが、怪訝そうな表情を浮かべている。
「え? ううん、……あの」
外套をダルトンに手渡しながら、心配そうな表情を浮かべてリガルドが近づいてくる。フィリアは、その身体から強く漂う嗅ぎ慣れない香りに思わず後ずさった。
弾かれたように自分から離れようとするフィリアに、リガルドの顔が曇る。
「……どうした? フィリア」
リガルドからすれば明らかに挙動がおかしく見えるだろう。でもフィリアは、その場から動けずにいた。
「……ううん、何でも。……朝会えなかったから、挨拶でもって」
心配そうな顔でのぞきこまれ、慌てて動揺を取り繕う。
(なんで声が震えてるの……私)
なぜこんなに動揺しているのか、自分でもわからない。でも漂ってくるこの香りに、胸がひどくざわついて嫌な気分だ。
「そうか……ならいいんだが。どこか体調でも悪いのか? 顔色が悪いような……」
リガルドが、さらに一歩近づきフィリアの顔につと手を伸ばした。
その瞬間、フィリアは反射的に身をよじりリガルドを見上げた。それは無意識の拒絶だった。
「あっ、ごめんなさい……! えっと、なんでも、ないの。ただ……」
フィリアの鼻につくその香りは、明らかに女性ものの高価な香水のもので。その辺の町娘が普段つけるような香りではなかった。百合や薔薇の香りがブレンドされたような、むせかえるような濃厚で甘い香り。
自分でも驚くほど、リガルドから強く香るそれに動揺していた。思わずリガルドの手から逃げてしまうくらいに。
(こんな大人っぽい香り……一体誰の? こんな時間まで、誰と一緒にいたんだろう。もしかして……)
頭の中にぼんやりと香りの主のイメージが立ち上がり、フィリアの胸の中にもやもやとした黒い靄のようなものが広がる。
「なんでもない。……おやすみなさい」
結局フィリアはそれだけ言うと、リガルドの顔もまともに見ないまま急ぎ足で部屋へと舞い戻った。そしてそのまま扉にもたれかかり、肩で何度か大きく息をして胸を押さえた。鼓動がまるで早鐘のように激しく打っている。
(あの香り……、あれって香水、だよね。ものすごく濃厚で大人っぽい香り……一体、誰の?)
鼻腔にいまだ残るその香りがリガルドの服、しかも胸元から強く漂っていたのはなぜだろう。まさか香りの主とすれ違ったくらいで、あんなに強く香ることはないだろうし。なら、考えられる理由は。
「リガルドに、そういう人がいる……?」
小さなつぶやきが、静かな夜の部屋に落ちた。
脳裏に浮かぶのは、リガルドの大きな身体に強く抱きこまれた女性の姿。それは痩せっぽちで未だ子どものような自分とは比べものにならないような、大人の女性の姿で。その背中には、リガルドのたくましい腕がしっかりと守るように回されていて……。
その絵に、フィリアはぎゅっと身体を震わせた。
(別にそんな人がいたっておかしくないじゃない。リガルドだって結婚していても不思議ではない年なんだから。……でも、でもなんだか私)
お腹の底が熱い。もやもやとしたものが急激に湧き上がってくるような嫌な感覚に、心がざわつく。
(なに? この感じ……。すごく嫌だ。こんな気持ち、知らない)
言いようのない嫌悪感と胸を締め付けられるような痛みに、フィリアは慌ててベッドへともぐりこむと、強く強く目を閉じたのだった。
◇ ◇ ◇
リガルドは自室のベッドに腰かけ、深く長い息を吐き出した。
ここのところ、満足に眠る時間も取れない日々が続いている。
それもこれも、あの忌々しいイリスのせいだ。
(男に飽きられ、持ち出した金も底をついて、挙げ句あんな男のもとに行き着くとは……。厄介な)
未だフィリアを逆恨みしているイリスの動向はずっと注視していた。フィリアに危害を加えるようなことがないように、監視していたのだ。そのイリスが若い男に捨てられた挙句、最近厄介な男の元に身を寄せているという情報が入ったのは、つい先日のこと。
それ以来、屋敷周辺の警備をさらに強化し、わずかな時間でもフィリアが一人になることがないようミリィをはじめ他の使用人たちにも強く言い含めてある。
(フィリアがここにいると知れるのは、時間の問題だろう。もしここにいると分かれば、あの女が手をこまねいて見ているとは到底思えない)
イリスは、自分が屋敷を追い出されるきっかけを作ったフィリアを恨んでいる。もちろん直接追い出した自分のことも。いつか復讐してやろうと気持ちを膨らませていてもおかしくない。もちろん実行するためには誰かの協力が必要だろうが。
あの女の執念深さは知っていた。いや、金への執着といえばいいか。それを取り上げた自分たちを決して許しはしないはずだ。それをイリスと今一緒にいるあの男が手助けしたとしたら……。
(朝から晩まであちこち情報を得るために飛び回っているおかげで、フィリアと顔を合わせる暇もない。朝食の時間だけは死守したかったものを……)
リガルドの神経は、すでに限界に達していた。
そもそも社交嫌いになった理由のひとつが、女性問題だった。リガルドの容姿に興味を持つ女たちが、勝手にわらわらとすり寄っては災難の種を落としていくおかげで、今まで何度も憂き目にあってきたのだ。それをなんとか我慢して、今夜も情報収集のために例の男と懇意だという噂のある女と会っていたのだが。
思わずリガルドの口から、血の底を這うような低いうなり声が漏れた。
(一体なぜあんな女のために。フィリアとの貴重な時間を犠牲にしなければならないんだ。それにあの匂い……)
娼館の女主人であるその女の身体からは 瓶ごとぶちまけたのかと思うほど甘ったるい香水の香りがしていた。それでもフィリアのためだと自分に言い聞かせ、目がちかちかするほどのその強い香りに吐き気をもよおしながら耐えた。が、特に有力な情報もなく、どんよりとした気持ちを抱えながら帰宅したのだ。
その目に飛び込んできたのが、ゆったりとした寝間着に肩掛けを羽織った姿のフィリアだった。
(いくら寝ている時間とはいえ、あんな無防備な……。年頃の娘として、もう少し警戒心を)
警戒心も何も、ここにいるのは偽りとはいえ兄である自分だけではあるのだが。本心を言えば、まったく自分が異性として意識されていないのだろうという思いに少々がっくりとするのも事実だ。
(にしても、フィリアは一体どうしたんだ。嬉しそうにかけよってきたと思ったら、急にあんな態度に……)
自分の姿を見て何かにショックを受けていたような反応だったが、ショックを与えたものが何なのかリガルドには皆目見当もつかない。踵を返して走り去ったフィリアに、ダルトンも驚いていた。
(少しは酒を飲んだが、ほんの一口程度だけだ。だから匂いが気になったというわけではないだろうし……。それとも一日歩き回っていたから、汗臭かったのか?)
首を傾げるしかないリガルドだった。
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