5話 お返しをいたしましょう
フィリアは、ノートン家の令嬢とは名ばかりのただの町娘である。強いて言うなら、貴族家での使用人経験のある町娘、といったところか。
よって刺繍などといった高尚な趣味はない。穴の開いた衣服の繕い物がせいぜいだし、自由に使えるお金を持っているわけでもない。そんな自分が、リガルドのためにできることは何だろうか。
ダレンのぎっくり腰発症によりさらにこの屋敷での生活が延びると知って、フィリアは何かお返しできることはないだろうかとここのところずっと考えていた。
「ねぇ、リガルドの好きなものって何だと思う?」
突然の質問に、ミリィがくりくりとした目をきょとんと瞬かせた。
「うーん……。お好きなもの、ですか? ……そりゃフィリア様に決まって……」
何やらぶつぶつと、ミリィがつぶやく。
「他にというと、そうですねぇ……」
記憶を辿るようにしばらく思案していたミリィだったが、何か思い出したかのようにぽん、と手を打った。
「あぁ! そうそう。ブランデーとかお酒を嗜まれますよ。あとは、ああ見えて甘いものを好んでお召し上がりになりますね。木の実の入ったお菓子などは特にお好きみたいですよ」
それはまた意外だ。ブランデーはとてつもなく絵になりそうだけど、甘いもの好きとは。そしてそれは願ってもない朗報である。お菓子作りが得意だった母仕込みで、腕にはちょっと自信があるのだ。
母が幸せそうに微笑みながら、家中に甘い香りを漂わせながらお菓子を作っていたのを思い出す。あれはきっと、甘いものに目のない亡くなった父を思い出していたのだろう。
手をすり抜けていってしまったもう取り戻せない幸せな記憶に、フィリアの胸がちくりと痛んだ。
それを振り払うように、フィリアは元気よく手を打ち合わせた。
「ねぇ、ミリィ! 厨房を少しの時間借りることってできるかしら? ……お菓子を作りたいの」
「……フィリアお嬢様手ずから、でございますか?」
「うん、そう。……ほら、リガルドから色々もらってばっかりでしょう? それに滞在も長くなりそうだから、何かお返しできないかなって。お菓子ならちょっと自信があるし、いいかなって」
フィリアの頼みに、ミリィはにっこりと満面の笑みを浮かべた。
「うわぁ、それはきっと大喜びですよ。下手したら額にでも入れて飾っておきそう。じゃあ、母には私から伝えておきます。材料はどうします? 買い物に行かれるなら、私がご一緒しますよ」
ミリィの動きは早かった。うまく行けば、早ければ明後日にはリガルドに渡せるかもしれない。
(やっぱりしてもらうばっかりじゃ気が引けるもんね。ここでずっと暮らすかはまだわからないけど、もらった恩に少しは応えたいし)
フィリアは、リガルドが自分のためにどれほど心を砕いてくれているか、自分と過ごす時間を捻出するためにどれほど無理をして頑張ってくれているのか知っていた。辛い思いをさせた分も、何かしてやりたいと思うのだろう。つくづく過保護で優しい兄である。
(ま、ちょっと妹に向けるには愛が重めで斜め上だけど。もしかしたら、リガルドの恋人になる人は苦労するかもね。でも愛があれば平気なものかしら)
ふとそんなことを考えてしまうフィリアである。
(リガルドが甘いもの好きで助かった。材料費くらいなら私にもなんとかなるし。……喜んでくれるといいな)
考えてみれば、自分からリガルドに何かしてあげるのはこれが初めてだ。気に入ってくれるか少し心配で、ちょっぴり気恥ずかしい。
(ブランデーに木の実なら……そうね。ちょっと大人っぽいケーキを作れば、お酒のお供にも良さそうだし。……他にもシンプルに果実を混ぜ込んだものと……)
せっかくの機会だ。いつも良くしてくれる屋敷の皆にもそれぞれ好みに合いそうなものを用意しよう。
(ブランデーはダルトンに言って、少しわけてもらえばいいし。あとスパイスも効かせたいな。他には……)
色々なお菓子のレシピを頭の中に思い浮かべながら、胸を躍らせるフィリアだった。
◇ ◇ ◇
さっくりと混ぜた生地を型に流し込み、予熱しておいたオーブンの中に入れていく。あとはじっくりと焼き上げて、粗熱をとれば出来上がりだ。
リガルドにはブランデーを多く使った大人指向の木の実のケーキと、ミリィたち女性陣にはかわいらしく飾り付けたプチタルトを。甘いものが得意ではないダルトンには、苦みの効いたオランジェを用意した。素朴な昔ながらの焼き菓子が好きなラスにはジンジャークッキーを。
厨房中に、香ばしい香りが漂う。
(やっぱり汗を流して働くのって気持ちいい。貴族の暮らしは優雅で楽かもしれないけど、やっぱりこうして動いている方が私には合ってるみたい)
フィリアは、額に浮かんだ汗を拭った。
「まぁまぁ、手際がいいんだねぇ。ミリィはお菓子だけはだめでね。何作っても炭になるのよ。お料理は平気なのにねぇ」
「あれだけ仕事ができるんだから十分ですよ。朝なんて、こんなに短い髪をあっという間に編んじゃうんですから!」
ほら、見てくださいと言わんばかりにフィリアが器用にリボンと一緒に編み込まれた自分の頭を指さすと、ハンナは快活な笑顔で笑う。
母娘だけあって、笑った顔がミリィにそっくりだ。
「あの子がお役に立てているようで嬉しいですよ。私にとってはかわいい娘ですからね。こんなお屋敷でいいお給金で働かせてもらえてるんだから、有難いことです」
「ミリィがいてくれなかったら、きっと私今頃とっくに町に戻ってますよ。いつも明るいしかわいいし、ミリィといるとなんだか元気が出ます」
フィリアがそう言うと、ハンナが心の底から嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。母の愛情がにじみ出たその表情に懐かしい母の記憶が重なって、フィリアの胸はぎゅっとなる。
「リガルド様とはうまくやってるかい? 困ってることはないかい?」
その問いに、一瞬意識しすぎて困ってるけどどうしたらいいかと聞きそうになって慌てて飲み込んだ。
「……いえ、まぁなんとか? ちょっと過保護過ぎかなとは思うし、血がつながっている実感も持てないんですけどね。でもいずれリガルドの結婚が決まればここを出ていくんだし、ならいっそダレンが元気になったら出て行くつもりですよ。これ以上迷惑もかけられないし」
どの返答に、ハンナが大きく目を見開く。
「じゃあやっぱりここでこの先もお暮らしになるつもりは……」
先程までの笑顔が嘘のように真顔になったハンナのこめかみのあたりから、一滴の汗がつう、と流れてエプロンに染みを作った。
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