鏖殺の剣の物語(完結編)

10)


「おーい、シャスカ、頼む、もどってこい、戻ってこいよおーぅ!」


 砦からシャスカを呼ぶ、叫び声があがる。

 しかし、シャスカはわき目も振らず、草原を必死で走っていた。

 逃げろ、逃げるんだ。

 少しずつ、思い出してきた。

 あの、グレンというやつ。

 逞しい身体の、皆殺しの剣の男。

 おれはあいつから逃げなければならないんだ。

 あの恐ろしい男から。

 そうしないと、おれは——。


 ゾワッ! ゾワッ!

 ゾワッ! ゾワッ!

 ゾワッ! ゾワッ!


 今、まさに草原のあちこちから、魔物が立ち上がる。

 肉の筒のようなあの化け物が、何体も、何体も、何体も。

 なんと、こんなにも潜んでいたのか。


 「くそっ、くるかっ」


 シャスカは身構えた。

 だが、ちがった。

 立ち上がった化け物たちは、みな、シャスカを見ていない。

 一体残らず、ひたと注意を向けているその先にあるのは、シャスカが逃げ出してきたあの砦だった。


 ギィッ!


 甲高く叫び、一斉に動き出す化け物たち。

 立ち尽くすシャスカを素通りし、一直線に突進していく。

 縦に裂けた口からよだれを垂らしながら、小さな腕を振り立て、泳ぐように、跳ねるように、村人たちが立てこもる砦に殺到していく。

 むろん、砦の者たちも化け物の動きに気づいた。

 矢狭間から、矢が突き出され、迫り来る魔に狙いをつける。

 次々に放たれる矢に、貫かれ、沈む化け物たち。

 しかし、化け物の数はあまりに多く、波のようにおしよせる大群に、いったいどこまであの砦が堪えられるのか。

 シャスカの心に、不安が広がった。

 その不安は、化け物たちの次の動きで、さらに強くなる。


 ヴオォォォォオオオオ……


 砦を完全に包囲した化け物たちが、前進をやめると、不気味なうなり声を発し始めた。


 ヴオォォォォオオオオ……

    ヴオォォォォオオオオ……

    ヴオォォォォオオオオ……

 ヴオォォォォオオオオ……


「なっ、なんだ?」


 砦のものも、あっけにとられ攻撃の手を止めた。


  ヴオォォォォオオオオ……


 化け物たちのそのうなり声は、まるで呪文のようであり、また、呼び声であるかのようでもあった。

 呪文? 呼び声? なんのために?

 シャスカが思う間もなく、


 ンヴォオオオオオオオオオン


 地を揺るがすような、太い声があたりに響き渡った。

 化け物たちのうなりに呼応するその雄叫びは、森から聞こえている。

 森からいっせいに森蜻蛉が飛び立ち、その銀黒色の翅を陽光にきらめかせた。

 森の樹冠が揺れる。

 そして、その樹冠から、ぬうっと。

 森の樹々よりも高く、伸び上がったのは、泥を捏ねて作ったような不格好な姿の、漆黒の巨人であった。

 その目も鼻もない顔には、化け物たち同様に、縦に割れた裂け目があった。

 口と思しきその裂け目の奥で、あぶくがボコボコと湧き立ち、そして溢れ出す。

 その体は一見泥のように見えるが、それはひょっとしたら、森に発生した魔気が、実体を持つまでに濃度を増し、凝り固まったものなのかも知れなかった。


 ンヴォオオオオオオオオオン!


 巨人は、化け物の呼び声に応えるように、雄叫びをあげ、のしり、のしりと砦に近づいて行く。

 それは、土地を開拓しようとする人間の営みを許さず、すべてを自らの領域に呑みこもうとする、魔の強い意志の体現のようだった。

 その圧倒的な姿に、砦からは絶望の悲鳴が上がる。


「あんな……あんな、とんでもない化け物にどうしろと」


 シャスカはうめいた。

 そして、あることに思い至った。

 おれか?

 これは、おれのせいか?

 どうしてだか、おれは化け物に襲われなかった。

 ということは、おれが逃げ出さずに、あの砦にこもっていれば、ひょっとしてこんなことにはなっていなかったのではないか。

 おれがじっとあそこに我慢して、助けを待っていたら、砦は、化け物の総攻撃を喰らわずにすんでいたのではないか?

 グレンが、鏖殺の剣の男が怖いばかりに、おれは堪えきれず逃げ出してしまったが。

 手作りの魔除けをくれたあの子も、今、あの砦の中で震えているのだ。

 このままでは砦は、あの子たちは、巨人と化け物に蹂躙されてしまう。

 ああ、おれは、どうすればいい。

 事ここに至ってはもはやどうにもならないかも知れない。

 だが、もしおれが行くことでなにかが変わるなら——。

 シャスカは、それ以上のなんのいい考えも持たず、しかし、ただ、砦に引き返そうと、震える足を踏み出す。

 その肩が、がしりと大きな逞しい手に掴まれた。



11)


「ようやくみつけたぞ、おい」

「うわわっ!」


 叫んだが、すでにシャスカは悟っている。

 グレンだ。

 俺はとうとう見つかってしまったのだ。けして見つかってはならない相手に。

 膝から力が抜け、ガクガクと震えた。いまにもくずおれてしまいそうだが、肩を掴むグレンの手が、それを許さない。

 震えながら振り返ると、シャスカをのぞきこむグレンの顔があった。


「お前がいつもいつも、逃げるから、俺は苦労する羽目になるじゃないか」


 グレンがなじるが、その目は優しい。


「嫌なんだよ、わたしは」


 そう吐き捨てるように言ったのは、シャスカ——であって、シャスカではなかった。

 シャスカをして、グレンからの逃走にかりたてている、シャスカの中のもの。

 それが、今、答えていた。

 それまでのシャスカの心は、意識の後ろに後退して、はんぶん芝居を見るように、自分の口が、ふてぶてしく、この恐ろしいグレンに口答えするのを聞いていた。


「わたしは、しずかに暮らして、朽ちていきたいんだよ。それをお前がいつもいつも」

「はん」


 グレンが、あきれたように笑った。


「お前さあ、いいかげん悟れよ。魔を賦活してるのが自分だってことに」

「むぅ……」


 グレンは、砦に目をやった。

 魔の巨人は、もう砦の目の前まで来ていた。

 巨人にかかれば、砦の、あんな丸太の防御壁など、ひとたまりもないだろう。


「ほら、あいかわらず、えらいことになっちまってるじゃないか。お前、あの森の中を闇雲に彷徨っただろ、そのせいだぞ」


 そして、シャスカに視線を戻し、告げた。


「やるぞ。嫌とはいわせんぞ」


 シャスカの中のなにかが答えた。


「……已むを得ない……お守りをくれた、あの子を助けなければ」


 グレンが、にやりと笑う。


「だから、最初から素直になればいいのにな」

「わたしは戦いはきらいだ」

「ははは。さあ、やるぞ、おい」


 片手でシャスカの肩を押さえたまま、グレンのもう片方の手が、がしりとシャスカの頭蓋骨を掴んだ。

 大きなグレンの手は、シャスカの頭を完全に覆い隠す。


(ああ、もうだめだ。俺は……俺でなくなる……)


 グレンとのやりとりを意識の後ろでなすすべもなく聞いていた、逃げまどっていたシャスカの心が、慄き、悲しみと諦めに満たされた。


「むうん!!」


 グレンの逞しい腕に力がこもり、次の瞬間、


 ベキベキベキ!

 ズズズズズッ!


 シャスカの頭部が引き抜かれた。

 頭部と、首の赤い輪が、シャスカの身体から離れていく。


(おれは——お、れ、は——こ、わ、い……うあああああああっ!)


 そして、頭部につながる脊椎もずるずると引き出され、あとに残されたシャスカの体は、皮一枚の袋となって、ペシャリとその場に潰れた。

 グレンの手に握られたシャスカの頭部は変形し、黒く細長いつかとなり、首輪は血のように赤いつばとなった。柄には、大きく口を開け、まるで叫びを上げているかのようなシャスカの顔が、地紋となって浮かび上がっている。

 そして、シャスカの体内から引きずり出された背骨は、そりかえり、禍々しい暗赤色の輝きを放つ刀身となっていたのだ。

 グレンは、高く剣を掲げた。

 これこそが、鏖殺おうさつの剣である。

 なんぴとも、この剣に抗うことあたわず。

 恐るべき魔でさえも、一刀のもとに切り捨てる。

 この剣に刃向かうものはすべて命を失う定めの、皆殺しの剣——。


 ギキィイ!


 剣の気配を感じて、化け物たちが怯み、たちすくむ。


「おおおおおおおおおおおおっ!」


 雄叫びをあげ、グレンが化け物たちに切り込んでいく。


 ぼしゅうう!


 グレンが剣を水平にふると、紫色の刃風が波紋のように幾重にも広がり、その光に触れたすべての化け物が、切断された。切り口からは蒼い炎がメラメラと立ちのぼり、化け物はもがきながら燃え上がって消滅する。

 何十体、何百体いようがなんの違いもない。

 いっさい抵抗できずに、すべて無に帰する。

 二度、三度。

 鏖殺の剣を振るうグレン。

 あっという間に、草原を埋め尽くし、砦を包囲していた肉筒のような化け物どもは片づけられた。


「さあて、あとは、お前だけだな」


 息ひとつ切らさず化け物を殲滅したグレンが、砦を守るように、その門の前に立つ。

 目の前には、森そのものが立ち上がったかのような巨大な魔。

 グレンと魔が睨み合う。

 山のような魔のその巨体を前にしても、グレンには臆する気配は一切なかった。

 静かに剣を構える。


 ンヴォオオオオオオオオオン!


 巨人の怒りの叫びが、大地を揺るがす。

 巨人は、人としては規格外に大柄なグレンの身体の、さらに何倍もある巨大な足の裏で、グレンを踏み潰そうとその足をもたげる。


「でえええいっ!」


 グレンが、気合いと共に、鏖殺の剣を横殴りに振った。


 ドズウウウン!


 持ち上げた巨人の足が、太股から斜めに両断されて落ち、地響きを立てた。


 ンヴォオオオオオオオオオン!


 頭をのけぞらせて、苦痛に巨人が叫ぶ。


とどめだ、森に還りやがれ!」


 グレンがすかさず、両手で構えた、暗赤色に輝く皆殺しの剣を振りかぶり、真っ向から振り下ろした。


 ズゾゾゾゾゾッ!


 発生した刃風が、魔の巨人を切りおろす。

 巨人の身体に、すべてのものを切断する、剣の力が食いこんでいく。

 そして、巨人の体内、その中心に凝結していた魔気の結晶に到達し、粉々に打ち砕いた!

 核を失った巨人は、ぐらりと傾き、倒れた身体が大地まで到達する前に、爆散して消滅した。


「おおっ、やった!」


 固唾を呑んで戦いを見まもっていた砦から、一斉に歓声が上がった。



12)


 門が開いて、人びとが中から溢れ出た。

 グレンのところに、どっと集まってくる。


「ありがとうございます、グレンさま、なんと感謝したら良いのか……」


 長老が深く頭を下げる。


「鏖殺の剣を持つ男、まさに——おや?」


 長老は言いかけて、訝しげに尋ねた。


「グレンさま、しかし、剣は?」


 皆の前に立つグレンは、手ぶらだった。

 もはや剣を手にしてはいなかった。

 腰には、逞しいその身体に不釣り合いな小刀しか差していない。

 おそるべき、あの鏖殺の剣はどこにもなかった。


「ああ」


 グレンは、事もなげに言った。


「いつものことだから。逃げたよ」

「逃げた?」


 グレンが言う。


「あいつは、戦うのが嫌いだから。すぐにどこかに逃げちまうんだよ、それで俺はいつも、あいつのことを探し回らなきゃならない、まったく、こまったもんだよ」


 そうぼやいた。


「はあ……」


 正直、グレンがなにを言っているのか、長老を始め、その場の人たちには、さっぱり分からなかった。だが、グレンとその鏖殺の剣によって、村が救われたのは確かだった。村の救い主グレンに対しては、感謝の気持ちしかなかった。精一杯のもてなしをしなくては。


「ありがとうございます、グレンさま、どうぞこちらへ」


 女の子は、そんな大人たちの声を聞きながら、砦を飛び出していったシャスカさんは、無事に逃げられたんだろうかと心配していた。そして、シャスカさんは、このグレンさまを、なんであれほど怖がっていたのかと不思議に思った。とても強いけど、こんなにやさしそうな人なのに。



13)


「ひいいいいっ!」


 シャスカは、必死に逃げていた。

 草原を突っ切った。

 その向こうの山地へと、ひたすら逃げる。

 なぜ逃げているのか、なにから逃げているのか。

 自分でもよくわからないが、とにかく恐ろしいモノが、自分の後方にいるのだ。

 それが、そいつが自分を探しているのは分かっていた。

 つかまったらたいへんなことになる。

 とにかく、逃げよう。

 安全なところまで、おれは逃げなくちゃならない——。

 逃げるんだ。どこまでも……。



「鏖殺の剣の物語」完

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