第64話 償いの剣
黒騎士ロスタフが剣を抜くと、あちこちからどよめきが起こった。〈聖剣ミストルテイン〉は薄日の光をあびて禍々しく黒く輝いた。
百戦錬磨とうたわれた〈戦車の資質〉を持つ剣士は、浅黒い肌に深い皺を寄せ老騎士を睨みつけた。
顎髭を撫で向き合う老騎士の手は乾いた血がこびりつき、革のはがれた赤い手袋のようになっている。
「返り血ではないな。貴様、剣技だけで、この人数を相手にしているのか?」
「ああ、魔術は専門外じゃからの」
「……ええい、なら見せてみろ!」
ロスタフは老騎士の頭目掛けて大剣を振りかぶる。真っ直ぐに降ろしたはずの剣先は右手にいなされ、同時に左手から強烈な肘鉄が脇腹に食い込んだ。
二メートルを越えるロスタフの巨体が背後に構えた黒騎士まで、骨も折れるほどの勢いで吹き飛ばされた。
「!?」真っ白になった頭をロスタフは振った。何が起きたのか理解が出来ない。老騎士の動きは決して速くはなかった。
「くっ、このおおっ!」
高い頬骨と鷲のような鼻、さっきまでの精悍な顔つきは怒りに歪み、再び燦然と輝く聖剣を担ぎ上げ老騎士へと突進する。
「このっ、このっ、このっ、このおおおっ!」
大剣は軽々と雨のように老騎士にふり掛かった。真っ直ぐに受ければ腕がへし折れんばかりの猛攻が、顔に、胸に、足に突き立てられた。だが、すべての剣は受け流された。
老騎士はというと、酔ったような顔つきで頬を紅潮させている程度だった。なにかが、起きている。ロスタフは突然の恐怖に戦慄した。硬い地面だと思って踏み込んだ場所には何もなくて、真っ暗な空間に吸い込まれていくような感覚だった。
自分が攻撃しているのではなく、攻撃されている。剣を振っているのではなく、振らされている。殺そうとしているのではなく、殺されようとしている――。
「ひっ、っひいいっ!」
雷鳴の間に鋼と鋼のぶつかりあう音が響いた。高速の剣撃を打ち続け、攻撃していたはずのロスタフは、剣を握る手を緩め数歩後ろへ跳んでいた。いや、握っていたはずの手は衝撃で痺れ――痙攣していた。
そして退いた左足は知らぬまに膝蹴りを見まわれて、バランスを保てなくなっていた。崩れたロスタフの巨体は膝をつき、剣を地面に落としていた。
周囲のいたるところで男たちが叫ぶ声がする。連隊長の顔に刻まれた、苦痛と恐怖に、信じられないという強烈な思いがみてとれた。
「はぁ……はぁ……負けてはいない」
必死にその考えにしがみつこうとする自分がいた。地をまさぐるように大剣をつかむと、ロスタフはもう一度、老騎士へと突進した。
もう一度、もう一度、さらにもう一度、まだ負けていないというプライドが、ロスタフを駆り立てた。
繰り返す攻撃に老騎士の足の感覚もなくなってきた。肩は革鎧の重みに擦れ、腰のくびれは猛烈に痛みだした。もとより握りこんだグリップは指先に食い込み、出血し続けていた。
黒騎士の攻撃はやむことがなく、永遠に続くように思えた。老騎士はずっと寝ていないことが不思議に思えた。
あの晩、リウトと酒を交わしてから一睡もせず、長い時間このロスタフという男と戦っているのは事実であった。
もしや、自分は寝ていたのだろうか。人間は戦いながら寝ることが出来のだろうかと考えていた。老騎士にはわからなかった。いや、そんなことでも考えなければ、過去の自分の過ちに押しつぶされそうになった。
ダリルが十二歳の時だった。漁村の学校から家に帰ると母親が死んでいた。酒浸りの父親が殴りつけた勢いで、あっさり首の骨を折ったのだ。
今朝まで笑顔でダリルの事を抱きしめてくれた優しい母は、ただの人形のようにピクリともしなかった。
圧倒的な恐怖と絶望。それは息をする気力さえ失うほどの絶望だった。
父親はいった――黒騎士がやったと。まだ幼かったダリルは本当に黒騎士がやったと信じたかった。
だがダリルが騙されることは無かった。父親を殺してやりたかった。大好きな酒瓶で頭を叩き付けてやろうか毎晩考えた。そして村の連中にこういってみよう――黒騎士がやったと。
ダリルは毎晩のように悪夢を見るようになった。殺すことばかり考えていたからだ。
そして、母のことを思い出すと大粒の涙が溢れ幼いダリルのえらのはった頬をつたった。
村中の人間から――母を殺した黒騎士を殺すために白騎士になるように勧められた。殺して来い、一人でも多く殺して来いと期待された。まるで呪いのようだった。
ダリルは丁重に断った。あの背筋を貫くような恐怖と悲しみを知っていたからだ。父親は臆病で疑り深いダリルの厄介払いができると思ったに違いない。母親のかたきが討てないならば、この家から出て行けと言った。
その日、荷造りをしたダリルは、家を出た。そして白騎士となった。
白騎士になっても、黒騎士を殺す理由が見つからなかった。黒騎士を見つけたら、女だろうが子供だろうが殺せと言われた。そして目の前に、縛り付けられた黒騎士を斬れと言われたことがあった。
まだ十六か、十七の時だった。
オレリノ渓谷には雨が降っていた。一か月に及ぶ戦闘が終わり、後退する敵軍の怪我人が道端にあふれていた。
ダリルのいた小隊は、敗残兵を殺しながら防衛線をはっていた。彼らは嫌な仕事だと言い張っていたが、それは詭弁であり、殺しを楽しんでいるように見えた。彼らは殺すときに躊躇も警告もしなかった。
警告すれば、もがいて仕事がしにくくなるうえ、見苦しくのたうちまわり騒がしくなるという理由だった。彼らの仕事は手際よく、苦痛も恐怖も最小限に抑えているかのように見えた。
それを情けだと思い込み、奇妙なうぬぼれに酔っていた。ただ一人、若きダリルだけが、恐怖と絶望に戸惑っていた。彼が敵の騎士にとどめを刺している姿を見たものは居なかった。
小隊長は、怯えたダリルをひっぱりだして、大声を上げた。
「貴様、何故一人も殺しておらん! 殺せ!」
「わ、私には無理です」息が苦しくなって手が震えだした。まわりで騎士たちが自分を見ている。
「殺すんだ。これは命令だぞ!」
「……いやです……いやです」
沈黙が襲った。長い、沈黙に押しつぶされそうになる。何かしゃべろうとしても、唇が震えるだけだった。白騎士になっても、あの家に居ても同じだった。
酒浸りだった父親の言っている事と何が違うのだろうと思った。全部、敵の黒騎士のせいにしているだけじゃないのか。
吐き気がする。目の前の人間の人生を終わらせろと叫ぶ人間と、死を前に怯えた表情を見せる黒騎士。
なにより、ここにいる自分にただ、吐き気がした。この沈黙から解放されるのであれば、自分はどんな捌きでも受けよう。殴られても構わないと思った。
命令に従えないダリルは幾度となく、小隊長や仲間であるはずの騎士たちからリンチにあった。顔の形が変わってしまうほど殴られた日もあった。気を失って、戦地に置き去りにされたこともあった。
やがて騎士たちは、呆れ果て殴るのをやめた。若き日のダリルは叫び続けたからだ。小さな子供のようにみじめで情けなく、何度も「ごめんなさい、ごめんなさい」と叫び続けた。
はじめは、小声で何か歌っているのかと思われ、周りの白騎士を笑わせた。だが、その声は、あまりにも惨めすぎて、あまりにも切なすぎた。こんな臆病者を相手にすることは、仲間の中でも恥でしかなかった。
結局、黒騎士を一人も殺していないというのがダリルの代名詞になっていた。いつしか、臆病者と呼ばれることで過去の償いをしているような感覚になった。
『ダリル坊や、おっきな蛾を追い払ってくれたのね? ありがとう』
うん、母さんに言われた通り殺さなかったよ。窓の外に追いやったんだ。でも、どうして母さんはそんなに優しいのに、あんな乱暴な親父と結婚したの?
『あの人は乱暴だけど、いざとなったら私たちを守ってくれると思ったからよ』
ぼくが、守ってあげるから大丈夫だよ。母さんが、あの親父を信じてるなら、ぼくも信じるけど、あいつは酒ばっかり飲んでてすぐに殴るんだ。
だから、嫌いだよ。母さんのことも殴ったの、ぼくは知ってるんだ。あいつの血が流れていると思うとゾッとすることがあるんだ。ぼくも、あいつみたいに誰かに乱暴するんじゃないかって心配になるんだ。
今度、母さんに手をだしたら、ぼくは親父を許さないよ。殺してしまうかもしれない……ぼくは自分が怖くなるんだ。怖くて怖くて、しかたないんだ。
『臆病でいいのよ、ダリル坊や。だって臆病な人間じゃなければ勇気は産まれないもの。優しさは産まれないもの。何も怖くないっていう人がいたら、その人はきっと手の付けられない怪物だわ。あなたを、そんな思いにさせてしまって本当にごめんね。弱くて情けない母さんを許してね』
許しを請うのはいつも自分のほうだった。
償うべき意志は、この剣に宿った――殺さずの剣に。
母を救えなかった
父を信じられなかった償い。
黒騎士のせいにした償い。
白騎士になった償い。
リリィを守れなかった償い。
死んでいった者への償い。
産まれてくる者への償い。
考えればいつも……きりがなかった。
そして、神に許しを請えば請うほど、ダリルの剣技は上達していった。剣技が認められさえすれば、百人隊にも居場所はあった。
大きな部隊ともなれば、有能な人間も必要だが、不満のはけ口や軽蔑の対象になる人間も必要だったからだ。四番隊の百人隊長は、それをよく分かっていた。
もう殺さんでいい。それ以外の仕事は山ほどある、お前の馬鹿力は捨てるには惜しい。そう言われたとき、ダリルは天国にも行けるような気がした。
もう誰も殺さないと決めた。だからといって何かが変わるとは思えなかったが、そう決めたのだ。そして誰かを救うために死ねばいい。簡単な決め事のはずだった。
たったそれだけの決め事でダリルは悪夢を見なくなった。
〈力の資質〉――相手の攻撃をコントロールする能力。真の強者とは敵を作らない者だと云う。モンスターをも味方に引き入れる誠実な魂。強い信念と深い思いやりがなければ、決して宿ることのない能力。
この騎士が誰一人として殺す事を拒み続けたのは真の〈力の資質〉を持っていたからである。彼は、何も力任せにはしてこなかった。
怒りに身を任せることはしなかった。だが何度打ちひしがれても、失意の底に落ちようとも、立ち上がる力を持っていた。
これこそが〈力の
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