第63話 魔力の根源
失敗したのは、赤ん坊の命を利用することをためらったか、幼すぎた子供が言うとおりに動かなかったか。あるいは、その両方か。
あの小廟にいた
つまりは女帝だろうと口出しの出来ない王家の生き残り。ローズは
この子が宝物かもしれない……と言った日が懐かしかった。何故……何故、何故、ローズは死なないのか。
ともかくローズは死ななかった。理由などわかるものか。ただ、初めから私は知っていた。ローズは死なない。魔力の根源に触れれば、決して戻っては来れないのに。
ローズは死なず……魔力の源を封印することが出来る、たった一人の存在。あるいは魔力の流れを変化させ、絶対的な力を手に入れることを可能とする存在。
権力の構図は変わっても、争いの歴史は終わらなかった。ときの権力者に〈天啓の宝珠〉が渡る限り、膨大な魔力と扱われる宝珠の収穫量は決まっているのだ。
この勢力バランスを崩すために、先人たちは封印術と解封術を発展させ、
自国の民にしか開けない武具や防具を、戦地や地下迷宮に残すことで後の世に勝利をもたらそうとしたのだ。
すべては徒労だったという証拠が、この終わらない戦争だった。だれにもそれは止められない、すべての物語は悪い方にむかっていく。
どれほど切実に神に祈りを捧げても、助けを求めても、正しくあろうと願っても、神がなにもしてくれないのと同じように。
滑稽だった。愛する娘を生贄にすれば、この世界を変えることが出来るとは。
肉体が滅んだとしても、我が娘はその中で永遠に生きるであろう。人間の肉体は百年と持たないが〈魔力の根源〉は恒久的に在り続ける。
そして世界を思い通りに導く存在と融合し、まさに〈神〉とも呼べる存在の一部になる。
『あなたは……あなたこそ……本物の救世主様なのですね』ミルコと名を変えたジラートフ〈吊られた男〉はいう。
本物の救世主など何処にもいない。だが方法はある。これはあまりいい考えとは言えない。まるで深海の闇の中へ我が子を放り込むような方法だ。
永遠に苦しみ続けるのだ。両手両足を失い、目も見えず耳も聞こえず、血の通わない記憶だけの存在となって。
それは生きていると言えるのだろうか。意識だけの存在が、はたして永遠の魂と呼べるのだろうか。存在し続けるのだ――この世界から戦争や憎しみをなくすために。
そこは無限の牢獄。地獄である。そこに送り出すノアも苦しみ続けるだろうが、初老の人間にしてみれば三十年もすれば終わる話だ。悲しみも苦しみも死によって解放されるのだから。
だがローズが〈魔力の根源〉に触れてしまえば死ぬことは無い。死は許されない。想像するだけで吐きそうになった。
身震いではらわたが千切れそうになった。死刑よりはるかに恐ろしい残虐な行為を前に、平常心は失われていった。
救世主と呼ばれた気の小さな男は、何を成すべきなのか分からなくなった。
その時、いつか自らに課した鎖がノアの首を締めつけた。正しいこととは何だ? 戦争を無くすことではなかったか。この資質を正しいことにしか使わないと誓った鎖が、ノア自らの命を締め付けていった。
恐怖が心を蝕んでいくのが分かった。だが、問題は恐怖を完全に失くしてしまうべきかどうかだった。ノアの命を現生に繋いでいるものは、もはや恐怖心しかなかったのだから。
そんなものにすがり、しがみついて生きることに意味があるのだろうか。急流の中で必死に丸太を掴み生きることは続けられない。
疲れてしまうのだ、何もかもに。ノア・ジョードの人生は狂ってしまった。いつの日か、こう思うようになった。
神はローズを選んだ。私は神でも救世主でもない、その手助けをする使徒に過ぎない。何も望んでなど居なかった。
安易に優れた解封師を求めた結果が、たまたま行き着いた答えだった。その可能性を、正しき選択を放棄することなど出来ようか。
我が愛しき娘、ローズ・ジョードは神と一体となって、魔力とこの戦争に終焉をもたらす存在なのだと。
『お父さんは魔力の何を知っているの?』
「ちがう、ちがう、ちがう、ちがう! 私は愛すべき父であって、憎むべき悪魔なのだ。わかるか、ローズ。私はひとりで、ふたりなのだ。救世主であって破壊者であり、裏切り者であって、裏切られる者なんだ」
渦巻く雲が吹き飛び、空に浮いた二人に上下の感覚はなかった。稲妻の轟音と閃光が、ノアとリウトの雄叫びをかき消した。
「うううわあああああああああああああああああああっ―――――――……」
漆黒の外套が風に引っ張られ、ローブを留める山羊の角の形をした飾り留具が弾け飛んだ。それは、いつか彼女がくれたプレゼントだった。
「リウトよ!」ノアは叫んでいた。「貴様は何もわかっていない!」
「――――……っああ、見えたよ、あんたの過去が。なにもかもご存知の救世主さま。つまりは、神ですら何もわかっていないってことが、よく分かったよ!」
ベルファーレの小高い丘からは、飛び散る土が浴びせられ、騎士たちが次々と転げ落ちていった。道沿いの樹々からは火が出ていたが、その一帯だけは手つかずのように騎士が密集していた。
膝を付き、赤土の匂いを目一杯吸わされた黒騎士は互いに顔を見合い、何が起きているのか分からないという顔をしていた。落伍兵の数は絶えまなく増えていった。
老騎士ダリルはたった一人で黒騎士と闘っていた。ただのショート・ソードを振り回しながら、決して殺さずに戦っていた。
誰に何を言われようと自分の決めたやり方を悔いてはいなかった。眼下に続く峠道は黒騎士で埋め尽くされている。
騎士たちは、ジリジリとダリルを追い詰めていた。人間が弾き飛ぶほどの剣圧を振るいながらも、その動きは決して速くはない。
老騎士は決まったタイミングで隙を作るため、リズムにハマってしまうのだ。
「ふーっ、ふーっ」
ときおり無気力な表情を見せ深く吸った息を、ゆっくり吐いた。 黒騎士の連隊長ロフタスが雄叫びを上げる。
「ええい! 報告しろ。何故こんな峠が抜けられない。さっさと進め!」
「き、騎士がいて、たった一人の老騎士が進軍をとめています」
「なにを言っているのか分かっているのだろうな」
老騎士ひとりを前に二百の兵が行軍出来ないなど聞いた事がない。副官は大声で返事をした。
「そ、それが駄目です。な、何故か攻撃が、剣が、簡単に受け流されます」
「なんだと?」
ダリル特有の剣技だからこそ、何時までも敵の剣を捌き続ける事が可能となる。黒騎士達は彼の恐ろしく正確で、計算された剣技に畏怖の念を抱いた。
白騎士の軍では〈臆病者のダリル〉と呼ばれていた彼を、恥さらしと罵られていた騎士を、戦っている黒騎士たちは誰よりも恐れた。
剣を交えた者にしか分からない――この男は常に隙を見せつける。
「情けないのぉ。ほれ、打ってこい」
「くっそおぉ!」
余裕を見せつける。その隙に剣を撃ちこめば、それはダリルの思うつぼだった。手首を打ち付けられ、黒騎士の剣は宙に跳ね上げられた。すると、とどめを刺す代わりに黒騎士の集団に蹴り飛ばされる。
また一人、坂を転げ落ち列をなした黒騎士たちの足元に倒れた。脇を抱えられ立ち上がると黒騎士は言った。
「歯がたたないだと? どうしてだ! あんなノロマに……だ、誰か、あの騎士を倒せるものはいないのか」
「ま、
峠の一本道には岩が崩れ落ち、脇道には黒煙が渦巻いていた。魔術弓はすべて魔術盾で弾かれることなく、消されていたのだ。氷晶や火炎、風や雷、あらゆるエレメントを使った魔術も老騎士の持つ〈恋人たちの指輪〉には効果がなかった。
「……馬鹿力だけの老騎士ではないのか」
まるで殺す価値もない、さっさと出直して来い――と言わんばかりの行為だった。黒騎士は誰一人として、この騎士を臆病者とは思わなかった。
「ええい! どけ。儂が行く!」
「な、なりません。ロスタフ連隊長」
額にしわを寄せた大男の黒騎士連隊長〈戦車のロスタフ〉が、馬を降りると仲間の騎士を押し除け前へ出る。
「おおおっ! 連隊長みずから出るのか」
「ついに〈戦車のロスタフ〉が剣を抜くぞ。続け、みんな連隊長に遅れるな!」
尚も黒騎士たちの剣は雨のように彼に降り注いだ。かわした剣は地面に叩きつけられ土を舞い上がらせた。老騎士は剣と、土の両方の雨を浴びせられた。
緊張感が途切れることはなかった。汗ばむ手でグリップを握り直し、時にはゆっくり、時には素早く剣を捌いていった。
「ふーっ、ふーっ」
化け物のように勇敢な騎士にしか出来ない技術だった。他の誰の剣術でもない。彼にしか出来ないものだった。
「名を聞こう」
黒く輝く重鎧をつけた巨漢ロスタフは老騎士ダリルの前に立っていた。きらびやかな鞘から抜かれた大剣は〈伝説の剣ミスティルテイン〉と呼ばれていた。
「ほほおっ」老騎士は使いこまれたショートソードを構えもせずに、左手を前にだし相手をさそうように指をあげた。
「ただの臆病者としか呼ばれてこんかったわい。名前なんぞどうでもええ」
空は灰色に染まり、雷が鳴り響いていた。魔術師がはるか天高くで戦っているのを感じた。もう少し、あと少しでリウトは答えをだす。
「リウトが戦っておるんじゃ。頼むからその邪魔だけはしてほしくない。なあ、頼んだら駄目なのかの……なあて、頼むから」
「相手を誰だと思っている。道を開けろ、貴様には死んでもらうぞ!」
死はとっくに覚悟していた――。
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