第62話 悪魔の資質〈ノア編〉
紙紐やロープで境界をつくり、恐怖とパニックで精神を拘束する能力。肉体でなく精神を拘束出来るのだから、使い方次第では最強の魔術といえた。
だがこの能力を安易に頼り、間違いを犯す気はなかった。これは属にいう十五番目のカード〈悪魔の資質〉だった。それが分かっている以上、決して悪事に手を染めてはならない。
何よりもノアを救った騎士たちに、解封師として育ててくれた師匠に、そして愛する娘ローズに恥じるような人間にはなりたくなかった。
ノアは自らの能力で自らに鎖を掛けた。この資質は、信じうる正しいことにだけ使うという誓いの鎖だった。
『あ、新しい錠前ね。やってみていい?』
成長していく愛おしい娘の姿――ノアは優しさと厳しさは同じ意味だと知った。
ローズは手先が器用だった。玩具の代わりに幾つかの錠前を与えると、みるみるうちに解錠を覚えていった。解封師の使う宝珠も幾つかあったので、ローズに課題を与えた。
どういうことか魔法数列を直感で解いていくことが自然と身についている――この子は……特別な才能を持っている。
王都サン・ベナールの女教皇アリシアは、ノアに
すでに危険な仕事には慣れていたので、仕事には何の感情もなかった。持っていくものは、手でも簡単に千切れる細いロープと天地の指輪だけでよかった。
誰とでも、面会するたびに部屋に張り巡らせた紐で精神を拘束できるのだから、時間さえ掛ければ、敵国の重要ポストに入り込むことは難しくなかった。
客室として与えられた塔の一室からは、城下の集落が見渡せた。ひとりでは広すぎる部屋には雑然と本が積まれ、テーブルと椅子を占拠している。ベッドと床には散乱した書類とインク壺が転がっていた。
はじめは歴史学者や魔術研究家を拘束して情報を仕入れた。まだ野心も欲もなかった。ただ、娘を安全に育てたいという感情だけが先に立った。ひと気のない丘の家に移ったのは、この頃だった。
『お父さん、お仕事がんばってね。気をつけていってらっしゃい』
ノアは、この敵地にある烏城の側防塔の窓から、空に散らばっている星ぼしを見上げた。
ローズの暮らす遠く離れた丘に思いを巡らせる。ひとり残してきた愛娘が気掛かりだった。
彼女の母親が目に焼き付いて消えない。あの美しい死体である。生きているうちに彼女に会いたかった。
そして何をしようとしていたのか直接聞いてみたかった。ローズは成長するにつれ
そしてノアは黒騎士の持つ情報から少しずつ、この謎に近づいていく。つまり、
『お父さん、大好き。お父さんに、誕生日プレゼントを買ったの。マントを留める飾り留具なんだけど、山羊の角の形が可愛いでしょ?』
魔術師が何をしようとしていたのかは、分からない。極寒の冬を終わらせようとしたのか、白騎士を滅ぼそうとしたのか。全ての魔力を独占しようとしたのか。
或いは――魔力の根源、そのものを封印しようとしたのか。この世界の人間は魔力という未知の能力に操られている。すべての人間の精神は微量な魔力に操作されているからだ。
女教皇の命令に背くことになるが、ノアは
ひも解いてみれば〈吊られた男〉の資質を持った男が中心にできた組織だった。何かに縛られている人間にとって、ノアの能力は絶大な支配力を見せた。
相性というものがある。魔術師が愚者に敵わないように、吊るされた男の罠は悪魔の資質に通用しない。
悪魔の鎖による拘束を受けた一人、ジラートフはノアを崇拝し〈救世主〉とさえ呼んだ。
後に彼は顔を変えサー・ミルコ・ロウアンと入れ替わりロザロ白騎士の団長を演じることになる。
更に数年がたち、同じ部屋でノアは鎧戸を閉じて振り返った。部屋のなかに花束を持った痩せた男が立っている。
凄味の漂うリングメイルの上に漆黒のマントをつけているが、まとった当人の顔ほど、どす黒く見えるものはない。
それは死神と呼ばれる男だった――。
「……ベイン卿。君は何処にでも現れるんだな。でも配達員には見えないぞ」
「ははは、死の宣告を届ける意味では配達員といえますかな」
「その顔をみた私のショックを和らげるために、花束まで用意してくれたのかい? すまないね」
「クラトフ殿、お別れを告げに来ました。しばらく私のやり方で世界を変える方法を模索したくなりましてね」
魔力の研究について、死神ベインはノアの良き協力者となったが、それも黒騎士であればこそだった。ジラートフや烏城の衛兵たちと違い、彼の精神だけは縛れなかったのだ。
「貴方のような人間は珍しい。我々は……抑圧的で、差別的で野蛮だといわれる。黒騎士の民は、それが強さだと信じている。だが貴方は違うようです」
死神ベインはノアが
「なにを知っているんだい?」
「ええ、生まれながらの
部屋にはロープが張り巡らされていたが、彼に拘束術の効果はなかった。その厚い精神力の下には何があるのだろうか。だがノアはもう迷わなかった。十年も前に自分の中の風見鶏は封印していた。
「見解の相違だな。強さは、恐怖の裏返しだ。君はよく知っているはずだ。恐怖心や抑圧に、魔力が深く影響していることを」
「なるほど。我々にも、全力でその本能に逆らえとおっしゃるか」
扉があき、二人の衛兵が入ってくる。抜き身の剣は真っ直ぐと、ノアの喉に向けられた。ベインの肩にも半月刀がかかっている。逃げ場はなかった。
「まったく、ジラートフはまともではない。救世主が現れた……ついに、戦争を終わらせる絶対的な魔力を持った人間が現れたと、私にいうのです。しつこいくらいにね」
「まともって言葉の意味は知ってるのかい、ベイン卿。君にだけは目的を見失ってほしくなかったよ」
「烏城とて、クラトフ殿の見識に一度は
「無理もないだろ。魔術研究の集団なんて、カルト集団だからね」
「脅威か救世主か。面白いですね、見る者によってこうも変わる人物。貴方が何者だろうと私は一向に構いませんがね。お別れです」
「!!」血が吹き出し、目の前が真っ赤に染まった。
その日、死神ベインはノアの左右に構えている騎士の頭を半月刀の一振りで同時に切り落とした。仲間であるはずの黒騎士を躊躇なく殺したのだ。
彼は
「女帝はね、こいつらのような恐怖心を持たない騎士を何人か抱えているんです。お気をつけください。もともとこの戦争は、女帝や皇帝の覇権争いなんて背景はありますが――魔力の奪い合いが目的なんですよ。魔力を流通させてこそ、富も権力も生まれるのですから、当然でしょう」
「やはり戦争の根源は魔力にあると?」
「ええ、救世主様ならこの戦争を終わらせてくれますかな」
「あ、ああ。こ、こんなことは、終わらせるべきだ。私は……私は、その為にきた」
「家族が死んだとき、私は孤独でした」半月刀を血に染めた死神は、迷い子だった頃の自分をみる〈青髭のマッズ〉にそっくりな眼差しをむけた。
「何十年も前のはなしですが、全身に大怪我を負いましてね、頼れる友人も、世話をしてくれる知人すら周りにはいなかった。でも、貴方は違うと知って欲しくてね。両親を戦争で失ったもの同士として、貴方を信じましょう」
「崇拝しているからって、絶対的に信じてくれなくても構わないんだが?」
「くくっく……そういうところですよ。私はね、自分の馬にまともって名前を付けるような趣向の人間です。深く考えないでください」
ベインは、ノアのテーブルに花束を置いて烏城を去っていった。彼が去った後の城には無数に張り巡らされた鎖が残っていた。死神の資質で隠していたが、これで少しでもノアの身の安全が守られるよう配慮したのだ。
死神は悪魔の絶大なる協力者だった。いつか絶命の縁でみた〈魔力の根源〉の記憶を再び見るために〈記憶の宝珠〉を探索しながら、各地に残る広範な多神教の形をとったユグドラシルの樹にまつわる実情に迫ろうと考えていた。
その日からノアはただの
民族の壁を越えて命を投げだす目的は、本当の意味での〈魔術からの解放〉だったのだ。つまり、魔力を人間の手から放棄させる術が必要だった。
『我々をお救いください。我々は、そのためであれば、誰でも殺します。解封師の技術と記憶が必要ですか。連中が使うアクセサリーをかき集める策があります』
初めは実験の延長だった。勿論この資質を使って一刻も早く戦争が終わることを願ってはいた。
彼らを狂信者と思うかもしれない。カルト集団とも呼べるであろう。何故なら彼らは魔力以外の拘束によって初めて解放されたのだから……それこそ悪魔の力によって。
『〈塔の
見せかけの能力で手にするものは、見せかけのものだけだ。富も名誉も女だろうが、簡単に手に入るものに尊厳はなかった。
そして悪魔の能力はノア自身の精神をも混乱させ、蝕んでいった。
少しずつ……少しずつ。
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