第51話 孤独な花嫁亭

 真夜中に、二人は静まり返った酒場で目を覚ました。あのまま寝込んでしまったようだ。騒がしかった店内は暗く静まり、ほとんどの蝋燭が消されていた。


「どうして、最初からやり返さなかったんじゃ?」顔中アザだらけのダリルがいった。「大魔術師なんだろ。せめて回避したらええじゃろうが」


「俺だって騎士だぜ。今は仲間同士で戦っている場合じゃないと思って」


「てっきり魔術じゃ手加減できず殺しちまうからとか、そういうのを期待しとったわい。やっぱり、お前は馬鹿じゃったか……」


「訂正しろ、糞爺い。あんたこそ、なんで反撃しなかったんだよ」


 ダリルは重い腰を上げていった。「怒りで、本当に殺しちまうかと思った。殺しちまうと思ったら、やっぱり恐ろしくて何も出来んかった」


「ぷっ、あははは。そういうのを世間じゃ臆病者っていうんだぜ」


「なんじゃと……訂正せい。ふはは」


「ははは、痛てて」

 

 本気で戦ってもよかっただろう。だが、二人はお互いの言葉が嬉しかった。いちいち嬉しかったので喧嘩などしていられなかった。殴られても構わなかった。


 互いの言葉で救われてしまったのだから。馬鹿じゃない、臆病者じゃないという、たったそれだけの言葉で。


「もし、俺にもう少し知恵があって……もっとはやく魔術に目覚めていたら、マンサ谷の人たちもマソスさんも死なずにすんでた。考えてもみてくれ、あの時もし」


「やめるんじゃ」


 ダリルの声は低く柔らかかった。「そんなことは、考えるな。もしもなんてもんは無いんじゃ。お前は、お前らしくやったじゃないか。それで何が悪い?」


 横になったままリウトは右腕を目にあてていた。泣いているのだとダリルは思った。


 こいつはいつも急に泣いたり笑ったりする。感情を見せていいと言われれば、素直にそうする。無鉄砲だが優しく、馬鹿だが正直だ。


 恥知らずと思ったこともあるが、世の中の規範に収まらないのは優先すべき真理を求める人間にとっては一種の才能ともいえる。


 悔やんで苦しむ必要なんてない。すべてを知る全能の神がいたら、すべてを許すと言うだろうと思った。それでも正しいことをしようともがく、リウト特有のエゴイズムを心地よく感じていた。


「そうして自分を責めるなら、今度は儂が手を貸すさ。お前の盾になってやるわい」


 酔っぱらいに殴られた寝覚めは、惨めなものではなかった。二人の友情を感じさせる、最も尊い時間だった。人生で、最も優しい時の流れた空間だった。


「ご無事でしたか?」しばらくして個室のドアが開くと、エプロン姿の女中と共に酒場の女主人が入ってきた。修道女シスターチコリも一緒にいる。


「騒ぎの事は、よく覚えていない様子ね」女中の娘が言った。「酒場に居合わせた男たちが、あの連中を追い出してくれたのよ」


「すまんかった」ダリルがいった。「憲兵も呼ばず、傷の手当てまでしてもらって、何て礼を言ってええのか」


「いいえ。あなたが〈臆病者のダリル〉だと聞いたら、この酒場じゃ誰も咎めはしないわ」


「……」


 老騎士はこの酒場をよく知っていた。北部山脈グラス・ネックの防衛戦が勝利に終わり、四番隊がロザロの警備に配置されていた四年間。


 警備兵として治安維持に勤めていたころ、ダリルは酒場の女中リリィと出会い、結ばれた。女主人は何もかも覚えていた。


「ここに来たのは何年ぶりだい?」


「二十年位かの。まだ、ただの〈花嫁亭〉じゃった」


「リリィなら死んだよ。二年前に、流行り病でね」


「……そうじゃったか」


「彼女の名誉の為に言うけど、あんたが臆病者で部隊の恥さらしだからって、別れたわけじゃない」


「ああ、風の噂で聞いたよ。リリィは再婚して、幸せに暮らしていたんじゃろ」


「たしかに裕福な暮らしは出来たわね。そう見えたし、実際に新しい旦那は金持ちだった。あんたは本当に臆病だね。何も知らずに」


「何が言いたいんじゃ?」


「こんな酒場で女中なんかやってるとさ、昨日みたいな連中に無理矢理、抱かれちまうこともあるんだよ」


「な、なんじゃと? そんなはずはない。だったら、リリィは儂に言うはずじゃ。儂らの間に隠し事は無かった」


「さあね。リリィに手を出した連中には、あんたの部隊のやつらもいた。浪人部隊の上官なんかもね。だからもう一緒には居られないと思ったんだろう」


「……」


 あの日リリィはいった。臆病者と一緒に暮らしていくのはウンザリだと。そうしてすぐ、この酒場を経営する痩せ男と再婚してしまった。


 ダリルは、以前から彼女が浮気をしていたと考えるしかなかった。彼女は美しく、明るい娘だった。まるで野に咲く花のようだった。


 ただ風に吹かれ、そよいでいた彼女を責めるつもりはなかった。力まかせに花を引き抜くようなまねは決してしないと自分にいい聞かせた。臆病だったのだ。


 命を奪えないのと同じように、彼女の人生を奪うことが恐ろしかった。そしてもしリリィが凌辱された事実を知ってしまったら。

 

 自分は誰かを殺したかもしれない。やさ男を、そして白騎士の連中を皆殺しにしたいたかもしれなかった。


 当時の中隊長はグリードという傲慢な男だった。浮かんだのは誰よりダリルを見下し、目の敵にしていた男の顔だ。


 この街の治安は騎士団によって守られては居なかった。ただの中隊長グリードの金と恐怖による支配が成されていただけだった。


 ダリルは積極的に川縁の集積所での力仕事を手伝った。賑やかな酒場が立ち並ぶ一方で人身売買や武器、宝珠の不法なやり取りが蔓延していることを知った。


 賄賂は受け取らなかった。罪人を地下牢に送り続け、業績をあげることに必死だった。だから同じ部隊の仲間や警備兵にすらよそよそしい態度をとられた。


 戦線では役立たずの臆病者と呼ばれたが、治安維持で実績があがれば、ずっと街に居られる。彼女と居られると思っていた。


 そんな矢先に彼女はダリルの元を去った。部隊は再編成され、グリードは南部へ出兵し、四番隊はルファーク湖西部への配置が決まった。


 彼女は凌辱され、ダリルにそれを知られるのを恐れた。だから自らを捨て、自らの人生をかけて、その事を隠す道を選んだのだ。


『私の愛する旦那さまは、平気で人を殺めるような人間じゃないわ。ねえ、約束して。悪いことはしないって』


「だからじゃったか」


『私はね、あなたの優しいところが大好きなのよ。だからずっと変わらないでいて』


「もし……」


「やめろよ。もし、はないんだろ」リウトはいった。「あんたは、何も悪くない。あんたと彼女は愛し、愛された。それの何が悪い?」


「そうじゃな、もしはない。だがひとつ言わせてくれ、リウト。儂とお前はこんな人生で、こんな境遇で出会った。いがみ合ってきたが、もし違った出会い方をしていたら儂らは――」


「ああ。きっと……いがみ合っていたさ」


「ぶっ! そうじゃな。いがみ合って、罵りあって、互いに殴りあっておったな」


「「ぷっ……あははは」」


 女中の娘はダリルに駆け寄り皺だらけの手を引っ張り出した。「これ、貴方のよ」


「なんじゃ。動いてるのか?」いつか見たリリィの指輪だった。宝珠は紫色に息ずくように輝いていた。


 リウトは竜鱗の腕輪にアクセスして指輪を見た。レンギルの図書館にある宝珠の棚に手を伸ばす。


〈紫色の宝珠〉使用効果は、感覚の一致。つながっている感覚。これによって他者の資格スキルを一時的に使用可能にする。


 三回ほどの使用で効果は薄れる。別名、恋人たちの指輪。類目、スキル泥棒の指輪。

 

「恋人たちの指輪……六番目の暗示か。ずっと愛する人に祈り続けなけりゃ、こんな綺麗な結晶は出来ない。あんたは愛されてた」


 ダリルはふと目の前に立つ女中を見てハッとした。そこにははっきりと若き日のリリィの面影が見えた。


 もしや自分の娘か、とは言わなかった。もしは無い。もしあったとしても、育てた父親は別にいるのだ。


 酒場の主人はリリィのついた嘘の片棒を担いだだけの善良な男だった。〈孤独な花嫁亭〉と店の名前を変えたのが、その証拠だった。


「こんな高価なものは貰えない。儂に貰う権利はない。お前さんが持っておれ」


「ううん、母さんはずっと持っていたの。何年も何年も。それは貴方に渡すためよ」


「形見なんじゃろ?」


「うん。この指輪をあなたに渡すのが夢だったの。ずっと夢だったの」


 本当のお父さんに――。


 彼女はそう言いたかったのかもしれないと、リウトは思った。


「さあ、そろそろ行かないと……」修道女シスターチコリが時計を気にしていた。


「その前に、もうちょっとだけ用事を済ませてきていいかな?」


「ええっ!?」修道女チコリは頬を膨らませ、腕を組んだ。「いい加減にしてくださいっ! 私が怒られますよ」


「ほんの、ちょっと。なあ、先に教会にいっててくれよ」

    


 リウトと老騎士は距離をとりながら南に歩いていった。何軒かの酒屋を覗きながら白騎士の兵舎に向かう。


 衛兵が二人、篝火が炊かれている場所を確認すると、リウトは高い塀を飛び上がっていく。


「先に行ってくるよ」


「ああ、儂は身分証があるから、このまま正門から行くわい」


 この空中散歩は、二回目にしてはなかなかの出来だった。仕掛けは簡単、魔術盾アローグラスを足の裏に貼って、魔術弓マジックアローと同じ要領で飛ばす術式だ。


 たしかに複数個の魔法を同時に使いこなすのには、コツがいった。


 おそらく、ほんの少し先が見える能力を持った人間――つまり自分なわけだが、この特有の能力が無ければ上手く出来ないだろう。あるいは血のにじむような訓練をへて。

 

(皮肉だね。こいつのために俺は今まで、術式が組めなかったのに……今でも腕輪がなきゃ組めねぇけど)


 暗闇に紛れ込み、宿舎へ向かうと、一番みすぼらしい兵舎に酒場にいた男たちの声が聞こえた。浪人兵は十人に増えていた。腕輪を使って、人探しの魔術を探せば、もっとはやく来れたかもしれない。


「くそっ、あの野郎だけは絶対にゆるせねえ。闇討ちするしかねぇ。なんなら、女どもを人質にとって……!!」


 ちぢれ頭はハッキリと見た。二階の窓枠にが座ってこちらを見ているのを。


 口を開けたまま叫ぶと、その声は悲鳴のように響いた。「はぁああんの野郎がいるんだけど、なんであんなっところに!?」


「どっ、どうしたんですか旦那」


「なっ、なんで奴がここにいるんだよ」

 

 魔術師はにやにやと笑って言った。「指を返してやろうかと思ってね、俺と握手するなら。オグマって野郎は何処にいる?」


 リウトは浪人部隊がたむろする大部屋の真ん中にゆっくりと降りた。各々は手斧やロングソードといった物騒な武器を投げあいながら、テーブルや椅子を蹴り飛ばし場所をあけて獲物を待った。





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